オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


丸藤正道とアルトゥール・キシェンコの境界線の「ブラック・スワン」

Category: 間接的関連エッセイ   Tags: ブラック・スワン  聖俗  バレエ  プロレス  K-1  フォルム  二流  
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 今回は趣向を変えて「K-1=クラシックバレエ説」とか最近言ってる中でマジで「バレエ」を題材にしている注目作「ブラック・スワン」から「洗練と抑制、聖性と俗性」という点から格闘技関連との符号を見出すという、まぁー無茶な混合批評エントリ。

 ダーレン・アロノフスキーの前作「レスラー」との符号(もう識者はとっくに語ってることだろうが)も合わせると、プロレスとK-1とバレエという、地球と埼玉と金星くらいに離れた3者を、映画をジャンクションとして繋ぎ合わせる「演じることと実人生」「洗練され抑制されたフォルムとそこにアジャストしようとするパーソナリティ」みたいな固い部分と、そして「葛藤もなく難なくこなす1流の演技よりも、2流の人間の人生の方がドラマツルギーがあるのだろうか?」という命題に関しての話。



<<1・欧州文化圏発の、抑制と洗練と聖俗>>


  この手の映画を見てオレがしょっちゅう思うことは、日本人の感覚と若干差がある向こうの聖俗に関しての感覚の問題で、映画内映画批評にすんのなら父親不在で母親が主人公である娘に、たとえばピアニストであり、バレリーナであったりといった一流の芸術家にするという自身の欲望を過剰に押し付けるという家庭環境に加え、さらにその洗練と伝統の芸術というものはフォルムの抑制というものが不可避であり、それらが主人公の人格を抑え込んでいく一因となり、抑制が不可避な芸術の聖性と、抑制を要求する家庭基盤の中で何かが、例えばリビドーであったりなどが歪んでいく、という俗性が行き来するという物語だ。そして、最も差を感じるのは、ありきたりになるのだがやはり欧米の倫理基盤にあるキリスト教の問題であって、物語というものの基礎を為していることで、それがモチーフとなっているピアノやバレエといった芸術の抑制を通過してことさらに拡大して見せつけられる、ということだ。このあたりのテーマに欧州圏・米国圏・アジア圏、そして日本に差異があることが確かだ。

 その意味でミヒャエル・ハネケの、カンヌ映画祭で審査員特別グランプリを獲得している「ピアニスト」と「ブラック・スワン」を比較してるのをどっかで見たが、さっき書いた家庭環境がほぼ相似形で、そこで性癖が歪んでいったピアノ教師のいびつな恋愛劇がベースラインなんだが繰り広げられるあまりに汚くいびつなシーンの俗性との対比で流れるピアノ曲の、やたらな美しさという部分もまた、ブラックスワンの狂気が際出せるバレリーナの背景で流れるバレエの演技の華麗さという言う部分にて共通していると思う。


<<2・抑制と俗性>>

 
 
 K-1が歴史を重ねることでルールの改正や競技力の水平化による抑制と洗練による、バレエとの錯覚を起こしたのがこの「魔裟斗VS川尻」が行われた同大会でのサワーとキシェンコの一戦で、無論細かく見た場合、本当の意味で洗練や進化の部分では穴があるのだろうが、当時見た時にはもうこれが白人のヨーロッパ圏内の二人が抑制と洗練の果てにこうした試合を行っている、という絵も込みで本当にそう思った。そういう意味でキシェンコのプロフィールとかルックスとか本当にバレエの少女漫画が設定したみたいなベタな物とも見えるし。男性バレエダンサーになったとしてもきっとK-1MAXの位置と同じところまで行ったろうなあとか思いもする(ぜんっぜん違うもんには違いないけどよ)

 抑制と洗練の美、という領域は、前にも書いたようにボクシングの洗練でもMMAの洗練でもなく、K-1の中から見えた、ということは欧州圏が組み上げてきた歴史性と繋がった気がして本当に興味深かったわけで、現代K-1のバックグランドとしての競技の平均的なフォルム(※あくまで見え方の範囲で。詳しい技術は無視してる)を完璧に提示して見せたという意味で素晴らしく、そして魔裟斗と川尻の異種格闘技戦の熱狂という俗性がより面白く際立つ、という聖性なきプロ格闘技ならではの逆転というのも込みでこの時のMAXは見ごたえあった。



 そんで、今更な評価になるがバダ・ハリがやっぱそうした抑制と洗練が不可避な現代K-1のフォルムの可視化され得ない聖性の中で、興行のフックとなるとんでもない危険なパーソナルで起伏ある試合をするという俗性の両端を合わせ持っていて、バダの荒々しさが暴力性が暗に望まれてもいるMMAならさらに映えるとかまったく思わないないのもその辺の聖俗のバランスの問題で、さらにはオランダを中心とした欧州立ち技選手らの背景にある移民の問題なんかも合わせて意味深いというか。



<<3・洗練と聖性>>



 プロレスラーもバレリーナも、過剰に演じることにまつわる栄光と不可避な故障と、みたいな部分で繋がってるとこはある。「レスラー」と「ブラックスワン」が姉妹編であり、繋がっている点はそういう所にあるのだろうと。(主人公の背後を追うカメラを軸に、主人公=観客へと意識を繋げる、最近のアンチャーテッドやバイオハザード4みたいな映画的フォルムを意識したゲームを逆輸入したかのような手法なども)
 
 プロレスにおける洗練と抑制によるフォルムの美しさ見たいのを実行してると思われる、これもまた中量級の試合で、この試合の噛み合いようを見ていてプロレス中量級の雄・丸藤正道というのは、全日本プロレスのあの四天王プロレスといった過剰な大技主体でフルタイム近く闘い観客を試合内容で熱狂させるというドグマを持つノアで育った、というのもまた、勝負と華やかさという部分を格闘技バブルに奪われるなかで純プロレスがやれること、という背景ならではの抑制と洗練を求められる結果になっており、ノアのヘビーが停滞してジュニアの方が洗練されていく、みたいな構図もその辺の時代も関係してる気もする。これがまた「トップアスリート的なストイシズム」というのと、ノアが決定付けられてる洗練と抑制がまた別なのがややこしいんだが。

 「過激なプロレス」とも「明るく楽しい」とも意味が別のところに行ったノアのプロレスを巡る時代状況の中で、現代の他の団体よりも一段一種の抑制と洗練の方に向かわざるを得なかったとも見え、「ノアだけはガチ」(笑)みたいな部分でファンもそういう部分に美意識見出してたのかも知れないな、なんて思う。

 だが、下手なアングルとかストーリーラインに頼らず試合だけで見せるという抑制と、それに伴う負傷の中で、三沢光晴が亡くなるという所にまで行ってしまって以来(奇しくも「レスラー」公開とこの事態は近い時期にあった)、所属選手の負傷という事態の頻発など痛々しさが非常に目立つ。

 そういう三沢光晴没後の新日本プロレスにて行われたプリンス・デヴィットとの一戦は、バランスが揺らぎ続けるノア内での試合以上にプロレスの型や即興的な部分などの完成度が異様に高く、「プロレスは闘い」「プロレスは明るく楽しいもの」みたいな意思や目的地と全く別な構築物のようにすら映る試合に映る。そこにノアが決定付けられていた洗練と抑制のプロレスという部分が、他団体の試合にて良く見えるという構図込みで良く現れているように思う。



<<4・二流の演技も人生も制御し切れないドラマツルギーと、一流の人間の完結された演技もしくは試合>>


 思うのはブラック・スワンの物語は、少し俯瞰して見てみるとこれは結局二流のバレエダンサーの話であって、現代の一流の天才バレリーナというものは現代映画のドラマツルギーにはなり得ないのかもしれないな、なんて思った。

 「白鳥の湖」を再解釈して分裂する自己との葛藤を描いた狂気のドラマにするのはいいにしても、よくある皮肉な見方みたいに見えるかもしれないけど狂気に駆られて周り全てが敵に見えて、結果的に自らをも傷つける。というくらい精神的な波を抱えているバレリーナというのはそれは時に魅力を発揮するかもしれないが、すでに完結したフォルムの極致であるこの題目に対してはむしろその洗練と抑制が主人公を追い詰める意味として働いていて、トラディショナルな一流芸術を扱った映画ではなく2流芸術のサイコスリラーというジャンル分けをされているところを見ていてもそう感じもする。しかも白鳥を演じるシーンで転びもしたり、ラストでブラック・スワンを演じるシーンで本当にCGで両腕から白鳥の翼が生えるという演出のB級ぶりなんかも、本当に大事なシーンを生身の演技で勝負させなかった。このことがまさに2流だろう。

 本当の天才バレリーナや天才的な選手というのは無論、葛藤は起こるのだろうが実際のところそのあたりの精神的なバランスというのは、ヒョードルだとかペトロシアンだとかマニー・パッキャオなどを見ても全盛期にある状態ならばつり合いは取っている(ように見える)わけで、葛藤というのがドラマになっている場合というのは、2流3流にキャリアが落ちるかどうかの瀬戸際にある部分が主になってくるだろうと思われ、先日のDREAMの宇野薫や所英男から感じる感動の類とはそこにあるよな、と思う。

 ここが問題であって、今日のバレエをはじめ伝統ある一流芸術の天才を追った映画、というのは興行的なラインからいっても現代的な意味から言っても評価が限定的にしかならず、真の1流の人間というのは実際の会場で、実際の演技を見る他ない。この点は「レスラー」だって同じで、そこがダーレン・アロノフスキーが回収し切れていない、あるいは意図的に避けている部分だと思う。2流の人間が最後、奇跡的な演技の果てに生き延びたのか死んだのか分からない、という結末をこの2本が選んだことがそれを意味しているように思える。(最後1流に脱皮し、栄光を持って迎えられるという結末を浪花節ギリギリで持っていくことも可能だったはず。「ハッピーエンドがいい」みたいな問題では無く)

 しかし、現代においてはもうとっくに一流芸術が一流芸術として重宝される、憧れられ、有難がられる所におらず、近い時期に出た「それでもボクはやってない」の周防正行監督の、妻のバレエダンサー草刈民代さん最後の演技を撮ったというドキュメントでもある『ダンシング・チャップリン』と本作の興行的規模や内容なんかを比較してみれば分かりやすいかとも思うが、バラバラに団体・階級が分裂していくボクシングの王者の権威の如く権威はとうに飽和しているともいえ、格で言えば二流芸術のジャンルであるサイコ・スリラーとして二流バレエダンサーの物語としての回収されることでなんとか映画のドラマツルギーになっている、という逆転現象自体が現状である気もする。

 起承転結みたいな起伏あるドラマツルギーというのはあらゆる興行が求めている部分には違いないと思うのだが、問題は1流の完結したものよりも、2流の人生の起伏の方が観客にとっても感情移入しやすいみたいなことであって、逆説的に現代は1流の完結と権威というものが揺らいでいる、という事実を再確認させられる映画でもあるし、「白鳥の湖」を再解釈した結果分裂する自己像との葛藤というサイコスリラーの解釈も込みで多くの意味で現代的なのだと見えた。

 未見だが「レクイエム・フォー・ドリーム」というドラッグ映画で名を為したとのことだが、やはり何かを回収できていないようにしているのだろうか?とも思った。今度見て見てようと思う。

 
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テーマ : 映画感想    ジャンル : 映画

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