オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


世界の全てのプロ興行格闘技史上の、「アントニオ猪木」

Category: プロレスの生む物語   Tags: プロレス    事件  
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IGFにK-1ファイターが集まってきたりしていることに対して、今のファンであることが既にマニアの意識に近いであろうプロレスファンがそれだけで振り向くことはないし、今のファンであることが既にマニアの意識に近いであろう格闘技ファンはそれだけで嫌悪感を時に見せることもある。

 2000年代格闘技バブルを過ぎた後の猪木はシーン全体を巻き込むようなポテンシャルを見せることは無いが、こうして巡り巡ってうっすらと注目の行くアントニオ猪木。今回のエントリは、「世界のプロ格闘技史上を振り返って気付く、アントニオ猪木が凝縮させたこのジャンル全体のある特性」という、プロレスも、格闘技も、あるいはボクシングさえも含めた興行格闘技史全体が孕んでいる性質から逆算した形の、格闘技というジャンルからの「猪木とは何か?」の章。
 




  アントニオ猪木の評価、というのは、「殺し」という概念の発案者であるI編集長こと井上義啓氏の週刊ファイトなどを代表的に現役時代よりタイムリーに為されてきたし、プロレス・格闘技の意味が加速度的に変化していこうとする90年代にもそうした変わりゆくプロレス界と照らし合わせて語り直されそうとしていたし、そして2000年代の格闘技バブルの要所要所でシンボルとして担ぎ出され、あの「猪木祭り2003」の凄惨な結果によりさらにまた評価を変えるなど、どのサイドでどの視点でどの時代を語るにしても既に出しつくされている感はあるし、今回のエントリはアントニオ猪木のそんな「底が丸見えの底なし沼」な部分であるとか、「つまらない常識にこだわり続ける世間をあぶり出す逆説としての猪木」みたいな部分であるとか、日本のプロレス・格闘技史の成立から猪木の意味を再評価するとか、そういうことを書くわけではない。(重なる部分は出てくるにせよ、そして今回このエントリの論旨も既に誰かに語られているのかもわからないが)

 今回書くのは、ここんところの全ての「プロ」格闘技の歴史全体を調べていて嫌でも目につくその分裂と野合の反復を見るにつけて、その中でのアントニオ猪木の意味というのは、あるいはこういうことでもあるよな、ということになる。




 広い視点を表明するのに「プロレスも格闘技も同じだ」という切り出しがあるけど、ここをもっと押し広げて、競技としての正当性を構造とともに重視した「アマ」を完全に別として、「プロ興行」として売り物にする格闘技ならば全て同じ、という視点で行けば、ボクシングもキックもMMAもプロレスも同じだ。と思う。

 格闘技というジャンルに関しては他スポーツの何倍も「競技性」というものに関しての「プロ」と「アマ」の境界に関しての差が深く、プロ格闘技興行の歴史を振り返るとそこは利権か、人間関係か、金銭的問題なのかわからないが平然と団体の分裂・離散・または利害関係上の野合などの現象が腐るほどあり、少なくともその歴史と権威、組織の体制の面から言って最上に位置であろうボクシングでさえも初期には少なかったはずの王者の認定団体が現在の主要4団体をはじめ有象無象の団体が乱立、そして様々な形の王者の存在を許すことになってしまっている現状、「プロ格闘技興行」が出来る厳密な判定による競技の権威の保持の限界が示されていると見える。この地球上の「プロ」格闘技において未だFIFAのような組織・連盟によって管理された興行という次元に到達できていない以上(そしてプロ・アマの境界の根深さを止揚出来ない以上)、現時点でのプロ格闘技興行が他スポーツ以上に先天的に抱え続けている性質と感じる。

 
 さらに特殊であるのは、格闘技に限ってはそうした団体や組織の分裂・離散・野合・買収などの利害関係ですらも時には試合の背景となり、興行の巨大なフックとさえなってしまうことで、単なる試合以上の「事件」としか言いようのない結末が生まれることがある。格闘技ファン的にはお馴染みのあの桜庭VS秋山などを想起して頂けると話が早いのだが、特にボクシングのように歴史も権威も浅い日本の、プロレスを興行のモデルとした新興格闘技史は、極論すればそうした事件性の連続によってその歴史を繋いできているように見える。その事件が巻き起こす、世間に波及する波紋の大小はともかく。



 そして、そんな日本格闘技史の「事件性」の歴史、あるいは、単なる試合の勝ち負けのみを意味するのではない「闘い」という、直感的には捉えにくいだろうこの視点の基礎を形成したのが誰であるのかを遡ると、アントニオ猪木の経歴に辿りつく。という、ここまでの話なら語られつくしているだろう話だが、問題はその経歴が、プロ格闘技史に対して示唆することだ。

 それは、先にも書いたようにボクシング含む全てのプロ格闘技の持っている分裂や野合、それに伴う闘いと事件の発生という側面を、意識的にも無意識的にも明らかに拡大させてきたとしか思えず、それは対モハメド・アリ戦からIGFの鈴川VSバンナにまで繋がっており、巻き起こしていく試合と興行の事件性が「異種格闘技戦・世界最強の闘いの場」としてのK-1はじめ新興格闘技が台頭するための一つの流れを生めば、「猪木祭り2003」みたいなとてつもない破綻をを生みもするが、ジャンルに関係なくここまで極端に、全てのプロ興行格闘技が抱えている弱点であり同時にポテンシャルである性質をその経歴のなかで凝縮させた人物は世界のどのジャンルのプロ格闘技を見渡しても希少なんじゃないかとは思う。

 「スキャンダルを商売に生かせ!」という気概から、実際に試合をする時の「風車の理論」まで見ていてホントにここまで意図的に何らかの破綻を作り出して、事件性の波紋を生むことが興行に繋がるというプロ格闘技の恐るべき側面によって生きている人間は見当たらず、常人ならば利害関係を調節してプロ格闘技を運営していく中で、偶発的な形でそうした所に繋がるところを、必然にして踏み越えていってしまう。猪木に付けられた「殺し」「闘い」「能動性」などなどと言った言葉は、プロ格闘技史を俯瞰した視点の中での自分には、それが最初から筋書きが決まっている闘いであろうと、完全な真剣勝負であろうと、厳密なルールによるスポーツであろうと、人間が闘いを売り物にすることにまつわるのある種の真実が凝縮されて刻印されていることにしか思えなかった。


 だから、もはやプロレスのみならず、ボクシングも、キックも、MMAも、とにかく全ての格闘技の「プロ興行」という意味で猪木は完全に飛び越えてしまっていて、日本格闘技にとっての、特に格闘技バブルという時代の不幸はそうした猪木の能動的に起こす事件性みたいのを無意識的に引き継いだことかもしれないな、なんて思う。
 
 アントニオ猪木の意味は少なくとも自分が振り返ってみて、プロレスというものを遥かに超えて、ボクシング・キック・MMAはじめ全てのプロ興行格闘技が先天的に抱えているマクロからミクロまでの矛盾そのものを限界まで拡大し、そしてその矛盾自体を試合に、興行に昇華した。その意味で、猪木行ってきた経歴の中に全てのプロ興行格闘技が抱えている弱点であり真実が凝縮されているように思う。そんな存在に、村松友視氏から井上義啓氏などなどがリアルタイムに目の当たりにして、強く惹かれていたというのも分かる気がする。誇張でなく世界でそういうことが出来た人間がほとんどいないわけだから。

 それにしてもどうしてこうした欲動が作られるに至ったのか?ブラジルで力道山に拾われたからか?ジャイアント馬場との確執からか?アスリートとエンターテインメント、世間とのコンプレックスとの闘いにて世間にアピールする、でも自己愛しかないかも知れない。いろんな人々がそうした猪木の解釈し切れない表層に対して、何とか言葉にしてみようとしていたのをたくさん見たが、正確な答えはどこにもない。

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 そして、ここまで書いた文章を読み返したら完璧、猪木信者か何かとしか見えなくてビックリ(笑)。やっぱアントニオ猪木は不思議だ。
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テーマ : 格闘技    ジャンル : スポーツ

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