オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


イノキゲノムフェデレーションの2011年・国内のメジャーの混乱それ自体を反映する機構

Category: プロ格闘技   Tags: IGF    サードワールド格闘技  
デリバリー

 単にK-1・MMAなどの新興格闘技興行のメジャーの危機のみならず、大相撲から日本のボクシング、さらには修斗まで混乱をきたす日本格闘技界。

 そんな混乱ですらもプロ格闘技のある側面での本質として、興行に変えるのがアントニオ猪木の特性ということを前々回に書いたけれど、実にメジャー格闘技のパイオニアであったK-1が揺らぎ、大相撲が揺らいでるここ数年間というのがいかんなく凝縮されているIGFに関してのエントリ。




 「IGF」というのが「どこまでが決まっていてどこまでからアドリブになっているのか分からない、グレーゾーンを疑いながら見る楽しみがある」という、昭和からのプロレスファンからはそうした原経験を元に今回のIGFを評価しているのを多数見かける。
 
 がしかし、(昭和プロレスという時代を一切経験していないことゆえの説得力や共感性の薄いだろう)自分からすると、ホントはプロレスのみならずボクシングから相撲、MMAからK-1に至るまで、格闘技が「プロ」を名乗り興行を行う限り、ある種のグレーゾーンは存在していると思われ、決して先述の疑いながら見ると言う視点が日本プロレスの黄金期であったその頃のみに適応されるとは思ってはいない。プロ格闘技の各ジャンル、各興行ごとに提示される「疑いながら見るべき部分」は異なっていると思われ、例えば先日のクリチコVSヘイなら、現状の格闘技中、歴史と王者の権威が世界のプロ格闘技の全ての中で最も保証されてるだろうボクシングによる「世界最強」の問題、UFC発のMMAならばそのボクシングの提示する「世界最強」にどこまでカウンターできるか?の問題などなど、ジャンルごとにアプローチされるグレーゾーンのテーマは確実に存在していると思われ、プロレスにおいてはもっと格闘技を観客らに披露することに関する根源的な部分に接触していると思われる。(ちなみに、2000年代においては純プロレスはファン=身内みたいになる中、ハッスルとマッスルが頑張っていたが、これも非常に限定された評価だ)自分は格闘技はそこしか見てはいないからある意味、全てのプロ格闘技をプロレスとして見ている。とも言えるか。


 ただ、そのグレーである部分が競技か興行か。適切な契約に合意してのものかそうでないのか。本気で効いているのかそうでないのか。などなどのマクロからミクロまでの様々なセクションが不明瞭な混沌とした状態を、観客たちに謎として残し興行に繋げる。という側面において、IGFがオールドファンに注目される理由というのもそこにあるのだろうが、既に2000年代格闘技バブル史上でも数々のグレーゾーンとなる「事件」を経験している現在、今回のIGFのポテンシャルとなっていた部分、そして昭和プロレスというのが数々の謎を残す事件性を孕んでいた理由というのも、こうしたことではないのか?という仮説がある。




 まず、あったり前だがバンナやセフォーをはじめとした、ファイトマネーが支払われないことからのK-1、谷川氏への不信感を露わにした発言がそこいらで為されているように、FEG発のK-1が失墜し、しかもこのタイミングで、遂に石井館長による新K-1(まだ公式なスケジュールも決定していないし、規模も興行形態も不明なのだが)が始動するという発表があり、メジャー格闘技のパイオニアであるK-1の分裂と下落の背景、というのがここ最近の日本格闘技界のトピックスとして後味悪く残る背景として存在している。

 かつての昭和プロレスから2000年代の格闘技バブル中の事件にまで、平均してグレーな事件性を孕んだ試合が生まれてしまう背景として大元の団体が揺らぐことで金銭的な問題などで流れ着くこと、また団体側の思惑などが入り乱れることなんかが設定されることが頻繁に見られ、そこはプロレスだろうが格闘技だろうが関係なく、今回のそうしたK-1がらみの境界が崩れたことなんかが最近のIGFのポテンシャルとなっているというのは間違いない。

 現在のIGFはある意味、昨今の日本格闘技界の破綻ばっかが凝縮された風車みたいになってる感すらあると思う。局地的にクローズアップされるにおいてK-1の境界の破綻の背景が今んとこ目立ちもするわけだけど、鈴川真一なんかを代表的に相撲の失墜なんかの要素も(まあ細かく見ていたらズレもするが)暗に示しているともいえ、というかそもそものアントニオ猪木自体が2000年代より新日本プロレスをグチャグチャにしたのちでのIGFの成立に至っていること自体が、プロレスの破綻っつうか。

 そうした破綻を飲みこむ磁場として強く働いているように見え、場合によってはJZ・カルバンとか小比類巻、西島洋介なんかが上がったとしてもおかしくないように思えもして、ともかく日本の様々なメジャー団体が意味を失うほどに、IGFというのがそうした現状を強く示唆するという構図に見える。自分には格闘技のメジャーの逆風を象徴する機構としてIGFが、格闘技の競技としての存在意義に接触する機構として前田日明の「ジ・アウトサイダー」が存在しているように思え、それは世界最強という概念を追うものではなく、高いレベルのものや新たなビジネススキームを作り出したものでも全くないが、なんにせよ、どちらにせよ日本格闘技史の根源的な部分に触れるカタルシスがあり、その意味で猪木と前田は手を組んでいるかに見える。(そして、猪木と前田を祀り上げながら黙殺している時代だった2000年代以降のプロレスファンと格闘技ファンには、もうこの二人のやることの全てが不愉快なものでしか映らないだろう。)




 とはいえ、そんな皮肉めな見方であるだけではなく、単純に「ジョシュVSバンナ」が今度の決勝戦に決まっているけど、これはK-1ファンのレベルが「プロレスなんて演劇と一緒で全く理解できない。格闘技はスポーツだろ?」みたいなハードな領域にあるのならばこの意見はあんま共感されないかもしれないが、現在の立ち技系ファイターたちが例えばMMAへの転向を表明していたりすることなどに見られる、金銭的な問題によって所属していたジャンルから離れてしまうなんて現象が少なからず見られる中で、ある意味でIGFの「異種格闘技戦」という場によって、本当に逆説的な形で「K-1ファイターをK-1ファイターの価値のまま、意味のまま」にしていることが大きい。

 現在の格闘技界の視点ならば「ジョシュVSバンナなんてMMAでやればいい。そうでないと意味は無い」みたいな評価を下すことも少なくは無いと思うが、もしこれがMMAで実現されたなら、特にもう遥かにボクシングに近づいてしまったMMAだったならば、石井VSバンナ、ジョシュVSロジャースを比較してもこれほどもう闘う前から見えている試合も無いだろう。

 佐竹雅昭からステファン・レコやイグナショフなどなど、少なくないK-1ファイターが「異種格闘技」的な名目によってMMAの場に上がっていったが、その姿と結果は悲しくなることが多い。自らの商品価値を元にした事前の交渉も含めた形でMMAに適応しようとしていったミルコやハントなどを全く別として、K-1ファイターという意味や価値の崩れやすさや、適応していたミルコやハントに見られる価値や意味の捨てやすさ、もまた目立つ。

 ある意味でIGFでのバンナは異なるリングに居ながら、そもそものK-1にて試合放棄をしてしまうほどの黄昏を見せながら、非常に逆説的な形で、一見盤石なようでものすごく崩れやすい「K-1ファイター」という意味や価値を見直させる機会を作っているように思う。そういう「K-1ファイター」の価値を持った選手として、例えば元大相撲、例えばプロレスラーなどなどと異なる人生や経歴を辿った選手との人間力との交錯の場としての「プロレス異種格闘技戦」。なぜMMAは悲しく、プロレスならば意味は補佐されるのか?K-1からボクシングも経験し、IGFにて意味を保持しようとしている「ジェロム・レバンナ」という選手の再評価は今がジャストかもしれない。

 なお、レイ・セフォーはこの場合に当てはまらず、ここでハード格闘技ファン的な解釈の「IGF=小使い稼ぎ」とすると、IGF発足以前からひとりIGFのような試合を各地で行っているように見える、ということを再証明したのであった。

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テーマ : 格闘技    ジャンル : スポーツ

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