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ブルース・リーが生きていた場合の格闘技史を想像してみる

Category: ファイト・シネマ・スコープ   Tags: ブルース・リー  新興格闘技  演じられる格闘技    佐山聡  総合格闘技の始原  修斗  UWF  
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 今回のエントリは新カテゴリ、映画にて演じられる格闘技というネタ「格闘技シネマスコープ」一発目、MMA始原の一つとして「ブルース・リーが仮に生きていたらどんな映画を作り、何をしていたか?」の仮説。

 MMAは数々の始原を持つといわれている。日本からは新日本プロレスからUWF、ブラジルからはバーリトゥード、そこからグレイシー柔術がアメリカに渡り、現在の形につながっていくことで、現在のUFC一人勝ちの状況のアメリカ史観のMMA史が一般的になるとは思う。

 しかし忘れてはならないのは、香港のカンフー映画から現れた武術家・ブルース・リーである。単なる不世出のアジアの大スターであるのみならず、中国拳法をベースにより実践的で総合的な「截拳道(ジークンドー)」という新格闘技を生み出した。それが単なる一つの武道思想として世界的に広まっただけでなく、実際に数々の新興格闘技を作り出そう人間に影響を与えてきた。それは未だに「燃えよドラゴン」冒頭のオープンフィンガーグローブ着用によるサモ・ハン・キンポーとの立ち会いのシーンの意味深さは生き続けており、その姿は最も早い段階でMMAの姿を捉えていた。

 ということで、佐山聡氏などを代表にマジにリーの影響下にある人間が現在にまで為してきたことから考え直す、映画史というよりも新興格闘技史側からの「ブルース・リーが1973年よりも先に生きてたら何をしてたのか?」の仮説。




 結果が出ている歴史を検証するのと似て、夭折したスターとは見る人間に対して与えるある種の感情であるとか、ある種の時代の意味が完結している。生き続ける中で意味や存在意義を変え続けるスターと対照的に、何か未完成な思想を抱えたまま夭折したなら尚更、その意味を探ろうとしたくなるだろう。

 ブルース・リーは歴史上に数多く存在する夭折したスターの中でも意味・時代性・思想などが飛び抜けており、様々な人間がその轍から、リーの為したことのその先を見ようとしていた、とも言えそうだ。

 特に佐山聡はリーの意味を最も引き継いだ一人と考えている。プロレスでのイギリス遠征時代にブルース・リーの従弟という設定の「サミー・リー」としてキャリアを重ねることから、初代タイガーマスク時代にはカール・ゴッチのレスリングとカンフー映画がミックスされたかのようなプロレスを展開していたこと。ブルース・リーが「燃えよドラゴン」で使用していたあのオープン・フィンガーグローブを起用したことなんかを代表に、プロレスという形で実際の格闘技術を演じて見せることから、修斗という形で自らの思想や発想による「打投極」の要素が回転する、全てが真剣勝負である格闘技の構想を実現したものが現在の総合格闘技の構造を提示した「修斗」に繋がっていったことの背景には新日本プロレスのほかにブルース・リーの影響は多分にあると思う。


 佐山聡の経歴はブルース・リーが生きていたとしたらどうなっていたか?のわかりやすいモデルだ。格闘技術を映画で魅せることを意識していながら実際にジークンドーという新武道を作ろうとしていたりと、闘うことを演じることを超えて新興格闘技を生み出し、のちに演ずることも競技も越えた思想、という領域に達してしまう、という可能性を、佐山聡から見て取ることができる。佐山にしても新興の武道の名前が「掣圏道⇒掣圏真陰流⇒武道 掣圏」。ブルース・リー「截拳道」思想に引っ張られ続けている面はあるのではないか。




 そんな佐山聡氏からグレイシーなどなど様々な「実戦」「真剣勝負」を見越した、新興格闘技の創設者・開拓者を比較することで、1973年を生き延びた世界のブルース・リーは何を作っていたのだろうか?(なお、1973年当時の香港映画の状況や関係などかなりほっぽってる状態の仮説なんで詰めの甘さはご容赦を)

①とても分かりづらいジークンドー思想実現映画に加速していく

 これはもう「燃えよドラゴン」とかその他もろもろでとっくに地位を確立したリーが存命していたら、まずかなりの確率で単なるエンタメカンフー映画を逸脱した、独自の思想実現の映画をやってた可能性はある。凄いアクションが展開されてるはずなのに、妙にダルく感じながら「いやブルースリーの映画なんだから」みたいにファンが自己補正して見てるとか、なんか関節技の取り合い20分映してるとか。そんな異様な代物を製作していく可能性は高い。早い話、初期のUWFみたいな感じですね。

 現在リリースされているリーの追悼映画としての色合いの強い、トラックスーツと各階にいる格闘家を倒しながら塔を昇っていくという部分で有名な「死亡遊戯」ではあるが、あれも様々なドキュメンタリーや書籍などからザックリ見て、存命時に撮影していたという内容の時点でもかなりリーの思想つうか妄想が反映されている代物だ。

 仮に生きてこの作品がちゃんと完成されたとしたら、以降はホント劇映画の領域を飛び越えていって、自分の思想を実現したジークンドーのプロモ映画(場合によっちゃもう宗教や政治団体のプロパガンダ映画スレスレなレベル)みたいなのを70年代いっぱいはやっていた・・・・みたいな。なんかゴダールのジガ・ヴェルトフ集団期みたいですが。

 リー自身が脚本を書き、自身で演じようとしたというがアメリカで企画が通らず、死後に当時の共同製作者によって映画化され、最近になってまた新たに作り直されるらしい「サイレントフルート」という作品があるが、これもあらすじ見る限りほとんど「死亡遊戯」の軸が一緒だ。やっぱ生き延びて映画作ってたら思想・教条部分がものすごいドライブしたものと、打・投・極を意識しまくった実戦シーンが延々と続くみたいな映画的に怪作・問題作の領域に入ったのでは。格闘技的にプロレス・UWFファンにとって初期修斗・初期パンクラスなんかを見つめるのに近いものになった可能性とかありそうだ。
 
 この辺の想像の元はやっぱプロレス・UWFから離れた佐山聡だ。最初期の修斗の光景なんかを写真で見ていても、エンタメから逸脱することによるかなりの思想実現の瞬間のヒヤっとする感じに溢れている。その辺の事実を元に、「死亡遊戯」以後のブルース・リーの映画の仮説を立ててみると新興格闘技ジークンドーの追求&プロパガンダ路線に加速していくというのはありそうな話ではある。

②ジャッキー・チェンなどのカンフー映画と演武と実戦性みたいな面で猛烈に対立し、孤立していく

 ブルース・リーの時代周辺のカンフー映画に関して、DVDの特典映像くらいの簡単なドキュメンタリーによる証言なんかを見ていても、その練習の強度と闘いを魅せるようにする意識の高さのバランスをものすごく近いのは昭和の新日本のプロレスだ。今回のエントリの軸として「魅せること、演じられる格闘技」という意味でかなりプロレスとカンフー映画は重なっている面はあると思う。

 とはいえブルース・リーの映画に見られる実戦をかなり意識した立ち会いの展開と、昭和新日本~UWFが本気で実戦しようとしていたストロングスタイルで異種格闘技戦などを展開したりときっちりしたエンタメとしての全日本と差別化していく、みたいな話はあんまり重ならないかもしれない。

 しかし「魅せること、演じられる格闘技」の宿命というか、プロレスでも歴史をどんどん重ねていくうちに試合展開やムーブの決まりごととか格闘技経験とかないド素人でもマニアックに見ていくうちに分かってきたりするわけで、最終的に学生プロレスみたいにガチガチのファンが演じる代物がでてくるってのに近い現象はどうやらカンフー映画界でも軽く起きていたらしい。ジャッキー・チェンを持ち出すまでも無く、そのあたりのドキュメンタリー(ゴメン、ソースとなるDVDタイトル失念。なんか最強中国拳法大全的なタイトルだったような)なんかで「まったく武術のたしなみはないがカンフー映画の型をマネていただけなんだ」みたいな俳優まで登場していたりする段階に香港カンフーもあったようなのだ。

 そういうのを見るに、まったく新しい武道・実戦を意識した格闘技としてのカンフー映画でなく、アクション映画のフックとしてカンフーが使われていくというのは普通に商業としてなら当然の流れかも。これはプロレスの「最初は真剣勝負の技術のレスリングだったけど食っていくために筋書きありのエンタメにしたからああなってしまった。だから(前田日明とかカール・ゴッチとか)が変わり果てたプロレスを戻す」という逸話のあたりがUWF~総合格闘技のキッカケの神話になってるとはいえ、「んなことはなくプロレスは最初からプロレスだったんだよ」というのもザックリ歴史を眺めてもまた然り。と思う。

 しかし、最初から「演じられる格闘技」であったはずのジャンルが、本気で実践的な格闘技の方にシフトする、という風に歴史の中でとんでもない逆流が起こりもする。それが猪木異種格闘技戦であったり、UWFであったりする。それがカンフー映画史上のブルース・リーの、全世界に名を広めるグルーヴを生んだことの特異な意味になるのではないか?

 ブルース・リーとジャッキー・チェンという、日本のプロレスにおける猪木と馬場のような対立は、ぎりぎりのところでついに起こらなかった。リーの死後以降に長くは続かなかったという70年代初頭のカンフーブームも、ジャッキー的な路線と猛烈に反発しあいながらもう少し長く続いたかもしれない。そこで「実践性」「思想性」なんかの視点を飲みこみながらなにか新しいものになっていこうとする奔流を生んだのかも知れない。だって70年代に猪木が仮に亡くなって、80年代に佐山や前田が亡くなってたりしたらプロレス格闘技史とか確実に寸断されてただろうと思うし。


③最終的に映画界を離れるか、もしくは行ったり来たりしながら、新興格闘技大会というものを作り上げる

 ここまで佐山聡の経歴やUWFの歴史など日本のプロレス・格闘技の歴史を演繹しながらブルース・リー存命時の仮説を書いている。生き続けて自分の思想を実現し、数々の団体を立ち上げ、潰していく人間たちを見ていても、日本と香港、プロレスと映画などなどの差はあれど、どうあがいたって周囲と対立して孤立して行くに違いないのだ。リーは生きていればきっと、孤立していく。

 とんでもなく深い信者(猪木信者とか前田信者のワールドクラスのレベル)に支持されながら、香港映画業界的にはものすごいうっとおしがられ嫌われ、「70年代のリーは良かった」とか言われたりしたかもしれない。独自の格闘技を作り上げ、それの宣伝や資金を得るために映画やTVと関わっていってしまうのかもしれない(さながら90年代にタイガーマスクに復帰した佐山みたいに)。

 そういう動きをしているなら80-90年代の日本プロレス格闘技界もほっとくわけないし、新日本かUインターが招へいしようとした可能性もあったかもわからない。格闘技史に影響あったのではと思うのは格闘技ファン側の妄想であって、映画ファン側だったらどう見んのでしょうか。(やっぱハリウッド~ゴールデン・ハーベスト間の商品価値的な面から推察すんのかな?)

 ジークンドーは独自の大会を開くなり、競技的に拡大していくのかどうかというのは佐山聡の修斗と比較するにここはわからない。アマチュア・プロの整備がないため、競技としてシフトしきれず、単なる新興武道として完結してしまい現在に至っている。ブルース・リーが最終的にジークンドーをどこに置こうとしていたのかは定かではないが、貪欲に各種の格闘技を混合していく姿勢があったのは確かだ。

 リーが生きていたとしたら、ジークンドーの存在意義を問われる局面は1993年にあったとおもう。そう、日本ではK-1とパンクラス、そしてグレイシー柔術主催によるUFCである。これらは既存の武道やジャンルなどの壁を突き崩していく真剣勝負を売りにしていた。ここでプロレスラーやら著名な格闘家が敗戦することで、ジャンルの存在意義を問われた。ここであらゆる格闘技を早い段階で混合していく試みをおこなっていたジークンドーも真剣勝負を興行にしていく流れに取り込まれたことには違いなく、当時の一番弟子をUFCやK-1に送り込むというのはあったと思われる。

  あのあらゆる新興格闘技創設者たちが衝撃を受けた1993年、53歳のリーにはどう見えていたのだろうか?




 かなり悪い言い方に聴こえちゃうかもしれんが、夭折したことによって今日に至るまでブルース・リーのファンやフォロアーたちが、残った映像や文献などからリーの思想を掘り下げるという形で収まっている。人物の評価が全盛期の状態で凍結してることは、見る側にとっては検証出来るという距離感があり、ある意味幸福なのかもしれない。

 格闘家だろうが映画作家だろうが生き続けることによって思想を貫くこと・または枯れていくが故に、一般人がついてけなくなる、敬愛とともに辛さもある感じさせる領域に、リーは観客を引っ張らないまま亡くなったことによって今日の神秘性を獲得してることは否定できない。

 がしかし、こうして佐山聡氏の経歴とか引用しつつリーを再評価してみると、仮に佐山氏が、あるいはUWFが、あるいは猪木がエンターテイナーとして全盛期に達し、ものすごい独自路線に行く直前に夭折していたとしたらやっぱ今日のようなプロレスと格闘技の歴史には繋がらなかったと思うし、リーが生き続けた場合には映画史的にも、格闘技史的にもかなり今日とは異なっていただろう。



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テーマ : 格闘技    ジャンル : スポーツ

Comments

1流と超1流の間にある壁とは哲学である、と考えます。
しかし学問の哲学のように政治や宗教と密接に関わることが出来ない哲学は他人には理解されません。メリットも共感もありませんし。

リーほどの人物であれば、まさにおっしゃる通りの人生を歩んていただろうな、と感じました。
>sabooさん

ブルースリーというのは総合格闘技の父だ、と
いまアメリカの格闘技団体のトップであるUFCの社長もいうわけで、
そういう繋がりか今度のEAスポーツによるゲーム
「EA UFC」では現代のトップ選手たちに加えて
ブルースリーが隠しで登場するとか。
ともかく映画史的にも格闘技史的にも影響は
計り知れないようです。

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