オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


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私たちがMMAについて知っている二、三の事柄

Category: MMA   Tags: MMA  ヴァーリトゥード  異種格闘技戦  PRIDE  
MMA
  パラエストラの代表であり、青木・北岡選手をはじめ数々の格闘家を排出している中井祐樹氏の至言に、「MMAMMAとして捉えている」という言葉で弟子たちの活躍を評していたのだが、逆を言えば多くの選手が「MMA」を何か別の概念で捉えているということにもなる。ということは今だMMAと言う物の認識というのが選手レベルでさえも出来ていない現状で、今回考えてみたいのは、これを応用して、「では見る側の自分たちは、MMAをMMAとして捉えられているのだろうか?」を歴史と共に複数の視点から振り返ってみる(例によって独断と偏見による私見によって)。
  

今回のエントリBGM・ピクシーズ「rock music 」(文字クリック) 

<<第一の視点・異種格闘技戦の場>>

  アントニオ猪木や大山倍達らによる、自分たちがやっているものこそが地上最大の格闘技である、と標榜していくことによって「どっちが強いのか、何の格闘技が最強なのか?」の欲望と幻想を生み出していくことによって、観客を引っ張っていくという昭和には主流であっただろう格闘技の在り方で、今では資本のある側がリングに「プロ」の場を持たなかった外国の柔道家や空手家などにギャラを支払って上げ、勝敗を取りきめした試合を行っていたことは様々な文献から知れ渡っているが、こうしたプロレスや空手側の仕掛けが現在までの格闘技の在り方に繋がっていったことは言うまでもないだろう。
  こうした異なる競技、異なるジャンルにて異なるプライドと人生を育んできた人間たちによる、ネットはじめ過度な情報が流れることによって形成されたコンプライアンス社会たる現在ではほとんど見られにくくなった「人間力と人間力の闘い」というものによって物語を引っ張ってきた時代でもあり、やっぱりプロレス・格闘技のオールドファンには思い入れの深い時代だと想像するし、様々なものが異なる人間同士が交錯して物語を生むことこそが格闘技の魅力だ。という風に、単なる数値的・科学的精微性のある競技としてではなく、むしろそれを越えるものとして格闘技を捉えておられる方も多いと思う。
  もともとの「MMA」という略称も、アメリカのカンフーや空手などの東洋武術の総称である「マーシャルアーツ」がUFCなどの異種格闘技戦の場の出現によって「ミックス」されていくことが語源になっているわけでもあるし、やはり「格闘技」に求めるロマンチシズムや物語性としてそうした部分を、競技派・興行論派・見立て派(私だ)問わず意識的であれ無意識的であれ求めていると思う。

NOT MMA

<<第二の視点・ヴァーリトゥード>>

 これは大半の人が認識している、「MMA」以前の90年代からゼロ年代にかけての柔道・ボクシング・レスリングなどの各種格闘技が「なんでもあり」が許される場で決闘するというもので、初期UFCのグレイシー一族を経由して広まったこのブラジルでたびたび行われてきた「喧嘩」の興行の冠となった(若干語弊はあるが)ポルトガル語だが、この頃の格闘技というのは、先に挙げたジャンルはかつて戦場の技術であるとか、殺し合いの技術であったものが時代の中で武道化・スポーツ化していくことによって本来の「殺し」(by 故・井上義啓氏 ニュアンス違うかな?)の技術が抑制していくこ形式になっていったものが、こうして時代が下ることによって今再び「殺し」としての格闘技というものが開陳する意味で、かつてからはプロレスの提供する「異種格闘技戦」がその欲望を代行していたと見るが、UWF革命以降本格的にガチへの欲望にアクセルがかかっていく中で、UFCが登場することによって決定的になったと思う。
  1993年というポスト・バブル経済の時代にてUFCはじめK-1・パンクラスなどの格闘技興行が次々と登場したことのシンクロニティに関しては各所で語られているが、この時代から「全てガチの格闘技を」という欲望と同じにでスポーツ・武道となることによって抑制されていた「殺し」の解放への欲望が強く結実したものと映る。
 まだ「MMA」なんて総称がほぼ公になる前ではむしろスポーツとか言うよりかは、スポーツになることによって抑圧されていた「最強は何だ?」名義の殺し合いの暴力を見たがる欲望が解き放たれることが前衛にあったと思われ、ほとんど無差別にて行われたあの90年代のVT大会の記録を振り返ると、例えば「中井祐樹VSジェラルド・ゴルドー」のような(当時でも極端な例かもしれないが)血生臭さが充満しており、あの頃というのはやはりそうしたものが見られるバイオレンスのショーとしても見ていただろう側面があるし、今また前近代のスポーツや武道という形で抑制されていた「暴力」というものが噴出していた時代から「MMA」という名称の新競技となることで再び抑制の時代となっていっていると思う。(あるいは「ジ・アウトサイダー」などはそういう意味では、とりあえずアマ不良喧嘩大会という名目ながらそうした「暴力性」に回帰しようとしているのかにも映る。)

<リヒター

<<第三の視点・TVの格闘技観>>

  野球やサッカーが放映されていることの由来には(ホントは別個に語るべきではあるが)、長年の大衆娯楽としての歴史を持つことや、またその中で様々な権威を獲得していったこと・国際的権威性などや「スポーツ」の正統性を示す協会や連盟の存在による統括の機構などによって大手新聞やニュースなどでも報道される存在であるが、プロレス・格闘技にはいまだ社会的な競技正統性を世界の最大手・UFCですらもまだMMAの州解禁に奔走している状態である現在、その他の格闘技イベントに社会的な競技正統性はほぼ皆無だろう。
 
 社会性が保証される圏内で視聴率を獲得すること第一でスポンサーが重要であるテレビにとっての格闘技は、やはり社会的な競技正統性不在のものであり、構造上TV番組のショーの一つであるものからどうあがいても抜け出せないのわけではあるし、本質的な意味ではプロレスもK-1もMMAも、あるいはボクシングでさえも同じものだ。若干乱雑な評価になるがプロレスは時代が下っていき、情報化された社会になっていくにつれ「八百長かガチンコか」という初期の社会的な競技正統性が問われていくことによって視聴率や番組スポンサーが降りて行き、深夜帯に追いやられることとなっていくのだが、その初期のヤオガチへの疑いにて「全ガチである」というレベルの競技正統性を獲得したK-1・PRIDEが鍔迫り合いをしていくことでゼロ年代の光景たる「格闘技バブル」の時代が生まれたのだと思うが、結局のところこれは「全ガチのプロレスでしかない」とも言え、本質的な競技化を整備していくこともできぬまま、PRIDEは「社会性」を逸脱する組織との関係をスクープされ、TVに見放されたあたりから格闘技バブル時代は終結していったことはご存じのとおりだ。
 
  とりあえずは協会が存在し、ある程度の社会的な競技正統性によって視聴率がまるで取れなかろうとも世界戦が放映されるボクシングについても言及はある程度必要だろうが、そこはまたの機会にする。

ケージの中の犬

<<第四の視点・「ジャンルの破壊過程」PRIDE>>

 そしてやはりゼロ年代における格闘技というものの在り方の総決算と言っていいPRIDEは、さきの3つの視点を総括した団体であり、一時期格闘技メディアを含みありとあらゆるものがひれ伏すほどの格闘技史上驚異的な増長を見せた団体でもあり、谷川貞治時代のモンスター化したK-1に対しファンはさらにPRIDEの社会的正統性のない競技正統性に酔い、増長していった。
  いくつかのK-1ファンのサイト様もそうした狂乱のPRIDE十字軍ファンに悩まされ、PRIDEを憎むことがそのままMMAをも憎むことに繋がってしまったケースもいくばくか見られるのだが、不思議なことにK-1をベースに様々な格闘技を見ているファンの書くブログ様のほうに批評能力が高いものを数多く見出せ、リンクさせて頂いているサイト様も気付けばK-1派の方が多くなるほど自分はシンパシーを感じやすいのだが、これはやはり何だかんだでプロ格闘技イベントのパイオニアであるゆえに、確かな「K-1」というジャンルを樹立しているゆえだからとも推測するのだが、ではPRIDEとはなんだったのか?というと、振り返ればそれはジャンルではなく、全く逆の「様々なジャンルを破壊していく過程」そのものだったと思う。10年かけてありとあらゆる幻想や権威を荒野の灰塵に変えたものと映っている。

 そうしたPRIDEに関しての参考資料として挙げときたいのが井田 英登氏によるALL ABOUTにて連載された最終回のコラムであり、 なんかネット上では「国内メジャー叩きばっか」とかで評判悪かったりもする氏ではあるが、リアルタイムで格闘技バブルを遠目に見てきた人間によるこの最後のコラムにあるPRIDEの評価は納得であり、ビッグイベントを否定してかたくなに「競技性」を高めようとする中小興行を推してきたというスタンスは支持するが、やはりこの証言に目を通しても夢のカードがすべて叶う格闘技の殿堂という一方では、それを実現してしまうことによって他ジャンルの権威失墜をもショーとしてしまうということになり、過剰な暴力性のあるルール以上に、「ガチンコの格闘技だ」という競技性を主張する以上に、そうした他ジャンルを爆撃・崩壊させていく過程として格闘技を捉えていたのがPRIDEのファンの性質とも思う。そうして爆撃するものが無くなった荒野である現在、青木の敗戦やUFCの興盛により日本MMA界は「戦後」のアナロジーで語られがちであるが、逆を言えばゼロ年代は全て「戦争」だったとも言える。(こっから9・11からイラク戦争に踏み切ったアメリカと追従した日本あたりまでゼロ年代の見えない破壊性について話を照らしあわせたいが、またそれは別の記事にて)
 
  カミプロの批評の実質エースであるジャズミュージシャンにして批評家である菊池成孔氏による、本ブログがエクリチュールをパク・・・参考にさせて頂いている「サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍」では、格闘技ファンだった氏が2000年より突如として格闘技を見なくなっていたところを編集者の企画により2004年の大みそかのPRIDEから2005年のHERO’s旗揚げまでを観戦した内容のなかで、当時のPRIDEとハッスルという「ガチとプロレス」という完全に相反するはずの2つの興行を行っていた、全盛期を迎えていたDSEを評して「高田総統というのはシャレにならない」とか「前世紀に何度も見た全体主義に酷似している」とのことを残し、その評に乗っかっていけばヨーロッパ全土を蹂躙していった第2次大戦時のナチス・ドイツのファシズム性に酷似した光景を生み出したDSEというのは、ゼロ年代にてほとんど疑似的な形でそうした見えない「第2次世界大戦性」を集約させた団体だったと思う。PRIDEに熱狂していたのは「競技」だからじゃない。9・11のように前近代の歴史を破壊していく過程だったから熱狂していたのだ。
 
  そして、ミルコ・クロコップこそがジャンルを破壊する爆撃機であったといえ、彼の評価に桜庭や高田のような人間的な意味での評価など一切なく、プロレスを、K-1を壊していった過程の中で増長した格闘技バブルという現象に人間の姿を与えたもののように映る。「PRIDE初期は桜庭の物語で、後半はミルコの物語」などとよく言われるが、ミルコは実質的には「物語」と呼べるものではなかったと思う。PRIDE地上波休止からUFCに挙がって即KO敗退といった姿を見せたのもまさに格闘技バブルの末路そのものだと当時思った。
not

<<第五の視点・左翼運動のアナロジー>>

  これが最後になるが、最後にして「何それ!?」と若干引き気味かもしれないが、どうかお付き合いいただきたい。
 
  ここまでに書いてきた4つの視点の根底には昭和のプロレス・格闘技に対しての「ガチなのか八百長なのか」といった強い懐疑や不信から、前田日明によるUWFという、「ガチンコを標榜したプロレス」という強く儚き理想による、誰もがうすうす心のなかで求めていた革命団体の登場とその歴史は、時の『週刊プロレス』編集長であったターザン山本や、佐藤大輔による煽りVにて「全共闘世代」「左翼運動体」などと例えられ、その中でUWFに対しても「結局筋書きの決まったプロレスだったんじゃないか!」などと裏切られ、失望しながらまた「ガチ」の思想を仮託できるものを探していき、そしてゼロ年代のPRIDEにまで辿りつくことによって「全てが真剣勝負の格闘技イベント」という理想の実現した帝国は達成され、完結したかに見える。

  だがしかし日本人がMMAに、あるいは格闘技に関わる以上、すでにその時点から一種の左翼性に身を浸すことになるとも思う。というのも、今現在でさえも一部のプロが重宝され、競技能力の高いアマ出身の人間は興行的に使えずTVでもハイライト扱いになりがちであったりするし、そうした状況によってか、ここ日本においての「競技的潔癖さ(つまりガチ)を求める理想」が生まれる根底に今だ「プロへの憎しみ」が基調となっていると思われる。ある意味では日本格闘技界というのはプロから裏切られた人間によって構成されているとも極端に言ってしまえば見え、日本でもっとも早く総合格闘技の競技団体化を実現した修斗などはそうした視点からいけば、創設者の佐山聡はじめ佐藤ルミナや中井祐樹など、ほとんどの人間がプロレスのヤオガチ性に反抗した「UWF」のまがいもののガチに裏切られた人間たちの総本山であるとも見えるのだ。ちょっと思い返しても見てほしいのだが、日本人格闘家のいくばくかの人間はみんな一度は「プロイベントへの不信感」を口にしているのを見たことはないだろうか?

  PRIDE崩壊という、ある意味では強大な思想の帝国の崩壊は、あるいは社会主義帝国ソ連の解体だとか、またはさっきのナチス・ドイツ的ファシズムとしてのアナロジーならばUFCとの関係を持って「ノルマンディー上陸」などなどと例えられもするが、「これで左翼活動体も終わったのではないか?最大のものが倒壊したいま、活動の根拠があるのか?」との現状でも、やはり精神性自体は今だに生き延び形を変えて存続している。DREAMなどはまんま思想の帝国PRIDEが崩壊し、深夜TVの地下活動的な存在へと追いやられた旧社会主義の残党のように見え、しかも時代状況の中で北米MMAに敗北することで自らの思想への懐疑すら始まり、「もう旧マルクス主義の啓蒙は無意味なのでは・・・」とか言った活動家の失望に、「ガラパゴス化」云々のかったるい自己批判は映る。
  「UWF」に裏切られた経験から極端に競技の正統性という意味の理想を海外に求める、一部格闘技ライターなどのように半ば無批判に北米MMAを過剰に推し、「メレンデスVSトムソン」の打ちあいを「高山VSドンフライ」と同じものとして判断しているレベルの批評能力による文章は、日本を批判するために外国を持ち上げ「北朝鮮は理想の王国」とまで言ったことのある左翼活動家的な言説のようにさえ見えるような極左的な言説も今だに消えない。野球やサッカーの記者が諸海外のリーグを持ちだして日本を批判・批評するというやり方はそれはそれでやっぱムカつくことには変わりないのだが、(長南亮への一部ファンの苛立ちはここにあるのだろう。ちなみに自分は長南選手のその立ち位置とキャリアからの批評は信頼している。)まだ意見を納得して聞けるのだが、こと、何度も書くが競技連盟も統括機構も国際的に認知される権威も不在である格闘技においては後味の悪さがあり、ライター自らの「プロへの不信感」を元にした「競技の潔癖性」を主張する思想の正統性を押しつけがましくしているせいだと思う。
  メディアレベルでも時と場合によっては「カミプロ」「ゴン格」などが左翼機関誌的に見えてしまう瞬間があるし、邪推するにやはりどちらにしろレフェリングやステロイドについての部分的な競技性への言及はするが、もっと本質的な競技の正統性を保証するコミッションの設置の話などについては少しはしていると思うが、あまり大きく論じられたことはなかったと思う。(「と、思う」ばっかですみません。専門誌でコミッション設置に関して、おおきく雑誌側も啓蒙していたよ、との証言あらば、ぜひコメントにお願いします。)
  強い競技性の設置というものにおいて、すぐ隣の大手スポーツ達などに具体的に参照できるものが多いにも関わらず、北米を持ちだすか、部分的になるか(悪いことではないが)になってしまうせいで、本質論に関わらない競技化への啓蒙でしかないせいで、具体性が薄いにも関わらずの自らの思想の正統性を押し付けるような左翼性を見とってしまうのである。

 それゆえに彼らが力を発揮する瞬間がどうしても内向きにならざるを得なくなり、自らの思想と異なるもの、異物となるものを排除すると言う事態がどうしても起こってしまう。これはここでアナロジーとしている「あらゆる権力を解体し、全ての人間が平等たる社会を、世界を。」という左翼イデオロギー革命運動自体が20世紀末までにソ連崩壊に至るまですべからく内部崩壊によって収束したように、「ガチガチの競技化によって資本が回せるのか?」という具体案抜きの観点のコアなファンの理想の帝国としてのイデオロギーを優先させた言説は、どうしても強い反発を招く。
 矮小的ながらも、たとえばこのネット上にあふれるブログ・ツイッターなどで強く競技化を訴える言説に対して同じファンであるはずの人間が「視点の違い」によっていがみ合い、もはや互いの論点を研鑽していくことで意見を生み出すなんてものじゃなく、多くが個人の中傷へとすり替わっていく。特に「競技推進派」という強い理想を求める人間が叩かれがちなのは、実現しえないもの(それこそ、あらゆる権威を解体した末の人類の平等のように。)に対して具体的にそれに近付けるような言説ではなく、「そういう競技的な見方のできない、プロレスのように格闘技を見る人間は間違っている」のような、一見筋が通っているように見えながら、実はほとんど内部の視点違いのファンへの攻撃にウェイトが置かれてしまっている点などが炎上を引き起こす要因にあると見ている。一種のこうしたイデオロギーを巡る内部騒乱はもはやあらゆる思想活動が内包しているものとさえ見え、特に今だFIFAのような「権力」の機構の設置もない現状のMMAではファンが極端に欲望や思想を仮託しやすいものになっているだけに、動乱が起きやすいように思う。
 
 しかし本来「権力」の解体のために起きたこうしたイデオロギー闘争が幕を引くには、結局のところ闘争の中で残った純全たる他の「権力」が設置されるまで、皮肉にも終わらず、またその設置された「権力」に対して解体の革命が引き起こされるのだろう。もはやこれは人類史にセットされた永遠の螺旋のように思う。
 
  YES!YES!YES!
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Comments

こにちわです。

そういえば、K-1系ファンの中にもやたらと「It's Showtime」を押してK-1を批判する連中がいるなぁと思ったり。遠い世界にあるものがとても綺麗に見えたりすることが往々にしてありますよね。政治でもスウェーデンやフランスを引き合いにして日本を「遅れている」と断じる評論家が多いなぁ。
Re: かかとおとし さん
 やっぱり島国として半ば隔絶しており、ほぼ単一民族としてやってきた歴史ゆえに「国際世界」の概念が出遅れてしまったこと・またそもそもの「世界」の概念自体ですらも箱庭的な「見立て」に近いものがあるゆえ・などなど理由は推測できますが、まあ「ガラパゴス」というここんとこの批判の方便なんかは >スウェーデンやフランスを引き合いにして日本を「遅れている」と断じる 、ということを公にすることを広めてしまったという意味で最悪で、本ブログはなるべくその言葉を避けて批評を書いていきたいと思っております。なぜならその言葉で批判したつもりになること自体がすでに、「国際世界」の概念を見失っていることに他ならないから。

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ビデオゲームというフィルターから俯瞰する、現代エンターテインメント総合批評
「GAME・SCOPE・SIZE」もやっております。ゲームの他に映画・アニメ・小説なども取り扱っており、興味があればこちらにも。

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