オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


日本格闘技で放置された謎を解くための過去・50年前の格闘技の歴史と、50年後の世界の格闘技の見立て

Category: もうひとつの格闘技史   Tags: 木村政彦  増田俊也  石井慧  
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 今更言うまでも無いが、今年は様々なセクションからの格闘技の崩壊という現実が多数見受けられ、それはある意味ではそれは歴史の中で解決し切れていない諸問題がそのままこじれた形であるように見える。

 オレが見立てるにその解決し切れていない問題とはなぜ格闘技興行が上手く米国ボクシング興行規範になりにくいのかといったことや、さらに翻っての格闘技にとってのプロ興行とは?反対に武道とは?スポーツとは何なのか?といったことが大幅を占めるのだが、それらに関しての一つのヒントとして、歴史から葬られた柔道家の栄光を救い出そうとする過程での、膨大な事実の調査と現代の進歩した格闘技の視座より過去を検証し直された大書が印象深かった。

 これは書籍のタイトルや文字通りの書籍の重厚さゆえに、栄光なき武道家の歴史の検証という好事家限定の興味に留まりかねない部分も大きいが、むしろ今のプロレスファンからMMA、立ち技のファンに至る広い範囲のファンにも見方に影響を与えるだろうフックのある書籍であり、どの部分がそれに当たるか?が今回エントリの内容になる。

 ということで、オウシュウ・ベイコク・ベース2011年の最終記事として木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の書評。様々なレベルの世間に届いた意味や、本書出版によって今後波及されるだろう効果を考えても今年の日本格闘技の事実上最大のトピックスを取り上げることで今年は締めさせて頂きます。





 簡単に歴史を眺めていても、力道山、大山倍達、そしてアントニオ猪木など歴史に名を残し、世間に広まった昭和のプロレスラーや格闘家というのは自らを強く演じることに余念は無く、また彼らを祀り上げるような作家やメディアにも恵まれていた。がしかし同時に実戦や突発的に仕掛けられるシュートにも対応できるよう非常にストイックな鍛練も欠かしてはいないことから、決して嘘やハッタリのみで成立させていないことも分かる。

 木村政彦というのはそうした彼らに劣らない人物であるのは確かなことはうっすらとわかるのだが、しかし彼らほどには神格化されていないように映るのは何故なのか?

 それが例のプロレスでの力道山との大一番で叩きつぶされたことに加え、日本の戦後の柔道の在り方というものもまた要因にあるというのはうっすらと分かっていたが、増田俊也氏の綿密なリサーチと、格闘家らによる当時の試合映像からの能力の検証から浮かび上がってきたのは、あの力道山戦の真実と、ヴァーリトゥードの実践者としての木村政彦の強さの再評価という目的だけではなく、この書籍の凄まじさは事実と実証による木村政彦の名誉回復の過程で戦後の日本格闘技のプロ・アマ・武道・興行・スポーツなど様々なセクションの歴史までも検証され直していることだ。この本が木村政彦の再評価というのみならず、思うにプロレスから今のMMAに至る様々なファンにも通じるフックがあるというのはそういう面からだ。





 先に結論を書いておくと、この作品の最大の効果と思うのは現在の日本格闘技にて投げ出されているプロ興行・スポーツ・武道といった様々な側面での襟を正す効果、通りを良くする効果に優れているということで、今年の日本格闘技ではMMAや立ち技などプロ格闘技興行のみならず柔道や相撲の界隈に至るあらゆる場所で失墜していく出来事が数多く起きた中での出版は実にタイムリーでもあった。と感じている。

 
 さてこの木村政彦本から、この日本において放置されていると思われる武道・スポーツというものを考える上で、まず取り上げたいのは、、「柔道」であって、とりあえずプロ格闘技を主に見ているサイドにとっての柔道というのはザッと公式なメディア側から格闘技ブログ界隈に至るまで、プロ興行での柔道家というのはなんというか一抹の違和感として語られがちで、当のオレにしても吉田秀彦選手評はこんな感じであるし、単純に「いつから日本柔道は現在のような位置や意味になったのか?」という歴史をも、木村政彦の恐るべき偉業と並行して解き明かされることになる。

 そして今日の「武道・スポーツ」という印象が柔道が形成されるに至るエピソードの白眉は、戦後、GHQによって様々な武道や柔道・柔術の流派が規制される中で「スポーツ」として生き残りをかけた武道としての講堂館柔道、それが戦後日本の柔道の成立。という歴史であり、戦前に存在していた多数の柔道・柔術の流派は実戦を想定したものであり、打撃も含めた総合格闘技にしようとしていたとされ、そして木村政彦も恐るべき柔道の組み技の強さだけでなく、高専柔道の高い寝技の技術に加え、戦後のアメリカ人に柔道を教える代わりにボクシングを習っていたという増田氏の記述を読み進める中で、凝り固まっていた柔道のあり方、武道の目的、そしてスポーツ化された格闘技、武道というものの意味が解きほぐされていくのがわかるのだ。

 

 そうした戦前の実戦を見つめていた頃の武道と再会する、という形とも言える、戦後にアメリカによって規制されていくことになる以前の、前田光世によってもたらされた柔術を受け継いだグレイシー柔術との木村政彦の闘いというのは本書の山であり、少なくともオレ個人の感想としては木村の格闘技術によってグレイシー圧倒していったというこの時期の検証の時点で、力道山や大山倍達に比肩しうるほどの木村政彦の評価 というのは納得できるものであり、上の動画をはじめとした実戦の映像が残っており、それらを修斗を主戦場にしてきたMMAファイターであり、柔術家の植松直哉選手がこの試合当時の木村政彦の強さを解説していくという説得力の強さも読みどころだろう。


 


 

 日本における格闘技のプロとアマ、現在の石井慧にまで繋がる柔道からプロ興行格闘技に渡る時に起きる摩擦などなどの現在に至るも放置されている違和感に関しても、ここで木村が関わっていた戦後のプロ柔道とそれからプロレスラーとなり興行で食っていこうとするエピソードの中に多数のヒントがあると思う。

 このあたりのエピソードは戦後のGHQによる統制によってスポーツ化によって生き残りを図った講堂館柔道の経緯と合わせて、一つの「武道」というものがスポーツとなること、あるいはプロ興行となることの経緯が描かれており、この点でも凝り固まっていた柔道というものが非常に現代的で興味深い側面があるということがわかるのだ。





 そうしてプロレスラーとして迎える力道山戦では、増田氏の最大の目的である「木村政彦の格闘技術ならば力道山を打ち破ることは出来た、力道山が筋書きを破ったとしても反応出来なかったはずはない」ということを証明しようと、吉鷹弘・高阪剛・中井祐樹・大田章ら現代の様々な格闘家を迎えての分析という最大の山場になるのだが、そこで導き出される答えは凄まじいものだ。それは簡潔に言って「プロレスラーになってから、身体を作っていない木村では勝てなかった」というあまりにも苦い結論だ。

 だがしかし、この試合に至る背景の歴史として戦後日本のプロレスの勃興から力道山に関しても非常に綿密なリサーチが為されており、オレとしてはもうこの力道山VS木村戦にまつわる背景などは日本のプロ興行格闘技の呪いの原初であり、ここに日本のプロレス・格闘技の根源的な、書きにくいが愉しみが集中しているとしか思えず、それが格闘家らの検証によって先の苦い結論に至るなんてことも含めて、やはり力道山はじめ昭和の主要なプロレスラーというのはその当時衰えていた木村にほとんど騙し打ちであったとしても、肉体的にもパーソナル的にも格を提示する強さを持っていた事実が印象深く残る。

 これは何も力道山だけでなく、本書でさらっとプロレスのリング上で仕掛け、潰したレスラー、潰されたレスラーたちのハードなエピソードも描かれ、戦後の力道山の日本プロレス周辺で実は有象無象のプロレス団体が発生しており、そのどれもが興行的に力道山にかなうはずも無く静かに、あるいは凄絶に幕を閉じていくという逸話にやはりこれも静かな衝撃を受ける。戦後、語られることの無かっただろう様々な興行格闘技の顛末までも描かれているのだ。





 こうして本書を読み終えてまず思ったことは、現代の柔道、そしてプロ興行格闘技の基盤が戦後に形成された中での経験則として、やはり木村政彦をはじめとする柔道家というのはプロに移る過程の中でスターになるわけでなく相当な経歴を歩まざるを得ないように見え、それは木村政彦の愛弟子である、岩釣兼生が木村の異名の「鬼」を石井慧に継がせるという所に至るまでその運命も継承されているかに映る。そうした現在にまで直結している意味でも、繰り返しになるがタイムリーな一冊だった。

 木村政彦の格闘技術というものが現在のMMAを遥かに先行していたという歴史的な事実から本書は強い実証性を持つに至ったのだと思うのだが、それがかなりデタラメなまま放置され、極端な話当時の煽りなんかさえ事実化されてすらいる戦後格闘技史そのものさえもかなりのところ実証されていくカタルシスがあり、本書と柳沢健氏の「1976年のアントニオ猪木」の2冊でいかに日本のプロ格闘技がこうした歴史を辿ったのか、を限りなく正史に近いレベルで認識出来るようになると思う。本書が木村政彦個人を検証し直すだけでなく、プロレスファン・MMAファン・立ち技のファンと言ったあらゆるプロ格闘技のファンに至るまで強度やヒントに溢れているというのはそういう面からだ。

 力道山から大山倍達、アントニオ猪木に至るまで、彼らの虚像というのを拡大させる語り手に恵まれてきたと思う。しかし遥かに時を経て、MMAというものが広まったことで新たに視点が生まれたことで、ようやく木村政彦という実像の語り手が現れたという風に映る。しかし、それは個人の名誉の回復だけではなく、歴史の中で放置されていたあらゆる側面さえも洗い直してしまった。そんなふうにオレは読んだ。





 ということで石井慧VSヒョードルの煽りとしても最適だった本書の書評で2011年度はこれで終わりにします。また来年に。

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テーマ : 格闘技    ジャンル : スポーツ

Comments

こんばんは!今年もお世話になりました。格闘技界で今年の話題本と言えば「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」ですね。自分もほしくて本屋に行って、見た時の分厚さにたじろぎました(笑)。自分の場合、柔道のことを、あまり知らなかったので歴史を含め楽しく勉強できました。

来年もよろしくおねがいします!よいお年を。
H.T様
やっぱ今日のプロレスと格闘技という、実質的に異なるはずのに繋げられてしまうこのジャンルはこの時代になるまでまともな事実関係や実際の格闘技の技術による検証が無かった中で、かなり普遍的な戦前~戦後、そして現在につらなる歴史書になっていると思われます。

H・Tさんがブログを復活されたのはありがたいです。また来年もよろしくお願いします。


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