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逆襲の長嶋”自演乙”雄一郎 と、「神聖かまってちゃん 」!!/パーソナリティーの痛々しさを、表現によって昇華すること/80年代に生まれて

Category: プロ格闘技   Tags: 長嶋”自演乙”雄一郎    神聖かまってちゃん  80年代  
ながしまさん
 前回最後に「青木VS川尻」考察にいくって書いたけど、その前に2010年の格闘技大一番7・5K-1MAXライト級について、ハイライトの一つとなるだろう長嶋選手と、ネット上で有名なあるバンドと照らし合わせて、「80年代生まれ」の痛々しさとその昇華について行かせてもらいます。

(※今回若干グロテスクな内容が含まれるが、同意したうえで「続きを読む」にクリックしてください。)

※書き損ねていた「80年代生まれにとってのサブ・カルチャー」について加筆しました。

<<というわけで今回のBGMは、まずこの文字をクリックだ>>

  インターネット席の私と同じ類の競技化推進派革新的批評無活動超現実的左翼型ファンである皆さま方にとっては、長嶋選手の評価というのは一体どのようなものなのだろうか?コスプレ演出や「自演乙」といったネットスラングによって自らのファイター像の世界・外・存在を成立させていることに対し、見てる良識ある皆さまは自らの心の中の倫理性によって知的防衛を図り、世間からすれば彫りの深いマネキンくらいの価値としか見られていない麗しきユーラシア大陸発のキックボクサー達による権威もコミッションもないK-1クラシックバレエの世界をいとおしみ「Kはサーカスなんかではない」「世界最高なんだ」という、創設者石井館長の生み出した欧州世界権威構造を匂わすことによって日本人が世界最高を信じ込む構図を上手く興行のフックとしたフェイクを、世紀を越えて今だ信じ込んでいるのだろうか?信じ込むことによってファンの世界・内・存在下のみに存在する「世界的スポーツ」が世界・外・存在にまで適応されたとまで思いこんでいるのだろうか?そうしたフェイクに乗っかるなかでいつしか「大衆娯楽」としてのK-1というのは蔑視の対象となってしまったのだろうか?そもそも格闘技が「大衆娯楽」であることは「悪」なのだろうか?ありとあらゆる格闘技の「善」の集約地点を「BJペンVSフランク・エドガー」に見出すのだろうか?ペトロシアンはKの神がファンに使わした地上の天使ということなのだろうか?

 いきなりアクセルを30キロ制限の住宅地でF1のように踏み込んだ飛ばした文章となったが、長嶋自演乙の評価というものにはアンビバレンツな感情が飛びかっていることは間違いなく、様々な意味で絶賛するでもないが、しかし日本人トーナメントを優勝したことや、また「K-1」に対しての強い愛やプロを背負おうとする気概を見せた手前、完全に叩ける対象でもないって所だろう。

 そんな自演乙だが自分がどこかシンパシーを感じてしまうのが、専門誌のインタビューを見る限り分かる格闘技を本格的に始めて行く以前の学生時代がほとんど引きこもりだったというような、ああした「コスプレ」とか「アニヲタ」のアウラとまた別、ないしは今のすべてのオタクの繋がる、現実に屈辱を受ける痛々しさの質を持ち、90年代の「新世紀エヴァンゲリオン」のようにアニメがそうした現実から受ける屈辱でさえも真っ向から物語として描き、暗澹たる物語ではあるがそれが一種の昇華に繋がった効果のある作品の時代より遠く離れて現在、完ぺきに物語不在の愛玩商品となったアニメ(これとか。文字クリックだ)はだるいことこの上ないが、そんな自分からしてみればアニメ以上にアニヲタの痛々しさについての方に興味があるのだ。(この前新聞みたらアニメファンのロシア人女性が声優を目指して日本に来て、喫茶店で働きながら仕事を探していてこれまで数本でてその中に最近の「エヴァ」劇場版の外国人オペレーター役をやってたとか、アメリカで一日10何時間の労働をしつつアニソンのデモテープを作って送っていた女性とか、「痛々しさ」という意味とは違うだろうが「アニメよりアニメファンのほうが面白くなってしまっている」ことは確かだ。自分には。)
  今現在はそうした90年代のような、「世紀末」という時代を背景に来るべき未来に対し陰鬱なムードを持ちながらも昇華へと向かうような物語というのも完全に不在で、むしろこれを見ている皆さまが現在使用されているネットをはじめとする膨大な情報というものがありとあらゆる幻想を相対化し解体し、その結果物語というものが見えにくくなってしまったのだと思うが、本来「大衆娯楽」というものが為していた現実から受けた痛々しさからの、物語による一種の昇華の作用という意味では、「大衆全て」には共通はしないだろうが、少なくともほぼ同年代であるオレには「痛々し」かった長嶋自演乙がK-1という場で「表現する」ことで昇華していくというプロセスそのものが、「大衆娯楽」的だった。とりあえず自演乙のパーソナリティーの領域から話をしたが、完全K-1席の方でもクラウスとシュー・イェンに秒殺された痛々しさを抱えた男が真向かいから再生し、K-1を背負うという強い宣言を吐くまでに至るというプロセスは十分に大衆娯楽的な物語による昇華があったはずだ。


の子

  痛々しさからの昇華。そういう意味でオレの中でに自演乙と並んで重なるのが、皆さまがBGMをクリックして頂けているならもう目にしただろうが、YOUTUBEやニコニコ動画などの動画サイトにて曲を投稿したりライブを中継したり路上でゲリラ的にライブしたりしていくことで、ネット上にてじょじょに話題となりつつある「神聖かまってちゃん」というバンドで、そのフロントマンである「の子」と いう青年の人生の痛々しさが織りなす音楽の質は、もはや社会性ギリギリの所にまで精神が追い詰められた質のもので、ほとんどアウトサイダーアートにさえ見えかねないレベルのものだ。そもそものバンド名からしてすでに人生であるとか、見えない大衆に対してだとかの意識を一種放棄しているかにも見えるだろうし、その点がまず痛々しいのだ。
夕方のピアノ
  上の写真はインディーにて発売されたバンドのシングルのジャケットであるが、この写真は先のフロントマンの子の腕であり、とりあえず真偽云々はともかく、もともと学校生活になじめず、いじめにあい引きこもりになっていった彼がリストカットを繰り返したものだ。まるで女の子の自傷行為をどうして男性である彼が?という違和感を自分も持ったのだが、そもそもの「の子」というニックネームも「自分が男の子か女の子か存在が曖昧だから”の子”」とのことで、ここにあまりにも強い、思春期という人生の初期の屈辱によって自らの成長に破綻をきたした痛々しさが現れているのだが、これを目にする皆さまは、この不愉快で憂鬱で痛々しい画像とこのバンドの存在について心の中の倫理感や善意によって、知的防衛をやはり図るのだろうか?「引きこもり&精神破綻者=弱者」は表現すべきではなく、社会が用意する「弱者=善=美談」のアウラに押し込め、抑圧・管理すべきなのだろうか?
かまってさん
かまってさん
  そうして深い痛々しさと、それに由来する狂気を抱えた「の子」は、そうした精神を支えるかのような仲間たち(K-1派の皆さまは、カラケスに反則を犯したバダハリを守るため自体を収拾させるためにマイクを取った3人のマヌーフをご想起いただけるとありがたい。一人ひとり、色違いなのだろう)とバンドを組み、ギリギリのところにある狂気寸前のフロントマンをまともな3人が守って、音楽を作っていくことによって集団で昇華していくということが自分には愛おしく感じる。

  今回BGMとして設定した「ロックンロールは鳴りやまないっ」のロックに出会った初期衝動について歌詞やPVの(おそらく「の子」の)瞳に重ねられたロック・ミュージシャンたちの映像コラージュや、長嶋自演乙にとっての「アニメ」や「格闘技」というものの距離はほとんど同じように、彼らと同じく80年代生まれの自分にとっては感じる。カウンターカルチャー「花、平和、愛」に代表される世界的に巨大な革命運動の発生と敗退という60年代という切れば血の吹くような歴史も、70年代の政治の季節の敗退から高度経済成長期によって日本が急速に近代化していくという歴史も断絶した、バブル景気に沸くポストモダン時代、60年代ロックのイコンたるジョン・レノンが射殺され、マイケルジャクソンによるポップが全盛期を誇る80年代に生まれたものにとっての、少なくとも自分にとっての「ロック」や「格闘技」というのは時代と共にあったもの、空気を共有していたものではなく、全てが最初から伝説と化し、歴史になっていたものであり、新日本プロレスも、UWFも、その後の3派に分かれた時代から「高田VSヒクソン」も、K-1も、PRIDEさえも格闘技に一切の興味が無かった自分にとっては、PRIDE崩壊直後の3年前より何かの調べものの時から見始めたときには、もうほとんどの格闘技の歴史と言う歴史の血の通っていたころは全てアーカイブの中だった。自分が「の子」や自演乙と同世代である瞬間を強く感じるのはそういうところで、サブカルチャーというものを同時代的なものと認識しておらず、全てが(ほとんどが)歴史を終えた伝説として残っているアーカイブとして触れている所からスタートしている点にある。だから上7行の暫定的な歴史は残っている文献や資料をあされば誰だって書ける代物で、本当の歴史を知りもしないのに知ったように書ける世代であり、また逆を言えば本当の歴史が現在見えない事によって現実性が欠けた感覚がある世代でもある。
  K-1オフィシャルサイトにある自演乙の「オタクだからでしょう。格闘技オタクやからこそ、格闘技の選手個人の動きではなく、格闘技の流れとか、そういうものが見れる。なぜPRIDEが潰れたか、なぜマットにスポンサーのロゴが減っているか、分かると思うんですよね、オタクであれば。」の言葉には、自らがプロへと脱皮した強い意志を持つと同時に、自分ら世代のアーカイブ化した歴史下の「格闘技」観があると思うのだ。(ちょい雑めな評価だが。)


  自演乙や「神聖かまってちゃん」の存在はネットメディア発、ということになるだろうが、「ネットメディア発」という意味はAKB48とかニッチな所から遠心力を高めて行くビジネス上の方便として起用されがちだが、現実によって傷つけられた「膨大な痛々しさ」が記載され続けるメディアであるともあるいは言える。自分の中でこの二人が重なるのは、そうした「膨大な痛々しさ」の意味のネットメディア的性質を、表現として昇華しつつあるあることだ。ブログやツイッターもネットメディアでは、「公」と「私」の概念がグチャグチャなままで膨大な情報を浴びるように貪る快感がある一方で、心の奥に嫌な澱のようなものが溜まっていく感じもある。本来昇華しにくいだろうこうした感情の昇華をほとんど意図しない形で実現している意味で、「ネットメディア発」の本当の表現ともいえるのかもしれない。

  自演乙はジダと真っ向から闘うことによって、私たちにどんな昇華をもたらすのだろうか?ということで締めは「神聖かまってちゃん」で「美ちなる方へ」。引きこもりで陰鬱な人生だった青年が、(おそらく音楽として表現していくことによって)出かけて行くようになるというまさしく「昇華」の歌だ。
  
  

  
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Comments

自演乙はスターダムにのし上がった今でも、mixiやtwitter上で自分に対して筋の通っていない痛烈な批判をしてきた人の書き込みを晒したりと、メンヘラ的なネットアイドルが行なうような「痛々しい」陰鬱な一面も持っているんですよね。
そんな彼が、7月にアンドレ・ジダに勝利すれば、ペトロシアンやサワーといった欧州キックボクシング部門の最先端とも言える「アスリート達」と対峙することになるでしょう。
その輪の中に自演乙が入ることによって今までとっつきにくかった「マサト抜き」のマニアックなK-1MAXにライト層を引き込む為の足がかり的な存在になるかもしれないし、彼が10月の決勝トーナメントのメンバーに入ることにより、自演乙から入ったライト層も、そして何よりもマサトプロテクトの影で泣かされていた選手達のファンも、みんなが楽しめるような興行になるであろうと大いに期待している自分がいます。
マサト程重いものは背負っていないだろうし、また期待されてもいない。でもそれでいいと思うんです。一人の突出した個性よりも、全員が程よい個性を発揮したほうが、「競技」としてもまっとうな形態になっていく。10月のトーナメントは本当の意味で、マサトの時代が終焉を迎え、新たなる時代へと進んでいく、そんな気がしてなりません。
Re: 銀玉 はん、まいど!(某氏のパクリあいさつ)
> 自演乙はスターダムにのし上がった今でも、mixiやtwitter上で自分に対して筋の通っていない痛烈な批判をしてきた人の書き込みを晒したりと、メンヘラ的なネットアイドルが行なうような「痛々しい」陰鬱な一面も持っているんですよね。

 ま、それは「痛々しい」より「イタい」でもあるんですが(笑)芸能人などはマネージャーなどがブログなどのネット上の発言をある程度校閲して管理しているわけで、長嶋自演はそのランクまであとちょいなのかなあという評価っすわ。桜井マッハとかプライベートビデオ流出とかボクシング会場でよって暴れたとかの情報がすぐネットに流れることでみんな面白いくらいに顔真っ赤にして涙目で批判してごくろーさん(「K-1心中」様必殺フレーズパクリ)というとこですが、逆にネット上ではすぐにこうした「信じるものが裏切られる」情報が上がってしまい、マッハなんて笑い話で即終結なのに「裏切られた」人間によるルサンチマンがまき散らされることで後味が悪くなる。それが現代メディアの前線たるネットメディア特有の「痛々しさの循環」に直結すると見ています。


> その輪の中に自演乙が入ることによって今までとっつきにくかった「マサト抜き」のマニアックなK-1MAXにライト層を引き込む為の足がかり的な存在になるかもしれないし、彼が10月の決勝トーナメントのメンバーに入ることにより、自演乙から入ったライト層も、そして何よりもマサトプロテクトの影で泣かされていた選手達のファンも、みんなが楽しめるような興行になるであろうと大いに期待している自分がいます。
> 全員が程よい個性を発揮したほうが、「競技」としてもまっとうな形態になっていく。10月のトーナメントは本当の意味で、マサトの時代が終焉を迎え、新たなる時代へと進んでいく、そんな気がしてなりません。

 銀玉さんのブログの言説はじめ、K-1ファン派には非常に厳しい評価のある今回ではありますが、おっしゃられるように興行や番組のバランスを測るために特定選手の勝利をプロテクトによって演出してきた違和感もこれまでにあったわけで、ある意味解き放たれた大会になるとも見ています。単体での観客動員・視聴率といったセクションの評価はそれは低かろうとも、むしろここから「アマ」の顔をしたキック選手や甲子園組が、客を熱狂させる「プロ」の顔へと脱皮していく過程を見て行きたいですね。
 
 個人的に今回K-1ライト級と構図がおんなじなのは、MMAの戦極フェザー級トーナメントで、これも開催直後はどこの馬の骨みたいな選手ばかりだったのが、終わってみれば小見川・日沖・金原・サンドロといった選手たちが「プロ」の顔を持つに至った。これはK-1派の皆さまでも鉄板で薦められる数少ないMMA大会でありますし、ぜひライト級の参考に動画やDVDなどでご覧になってみてください。(って、大会明日なんですが・笑)

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