オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


最近のプロレスを描いた映画や漫画に共通する絶対的な薄気味悪さに関して

Category: プロレスの生む物語   Tags: プロレス  
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なんかある記事読んだらおいふざけるなよと思ったついでの、最近のプロレスを取り扱った漫画や映画を通して見通せる、現在のプロレスを見る目線のある種の薄気味悪さに関して。

 長らくプロレスというのは日本のサブカルチャーへの影響に関して漫画では梶原一騎から果てはももいろクローバーまで多岐に渡り、オレがブログを始めるまでにプロレスのことなど調べるようになったのもとあるゲームクリエイターがインスピレーション元に大きく置いていたのを調べたことがきっかけだった。だが、近年のプロレスの影響力というのはそうしたインスピレーションの爆発力や影響度に欠けるのも否定できない事実だ。

 ではそんな近年のプロレスを、ほかの漫画や映画といったカルチャーはどう描いているのか?というのを時々目にするのだが、これがもうはっきり言って目も当てられないほどに揃って薄気味が悪いとしか言いようがない。

 プロレス格闘技系で非常に長く運営しているがその実記事内容は本質論に入るふりをしてうすっぺらな情報から茶々を入れるだけで、同時に挿入される各時事ネタもやはり同様に薄い表層だけを撫でるだけだったりと良かったことはジョシュ・バーネットの秋葉原観光実地くらいしかないのは誰もが承知だろう見えない道場本舗氏のところで、井上雄彦の「リアル」でのプロレス描写をなんと、過去になく褒めているという恐るべき記事を書いているのだが、この記事は氏はあえて本質論を書かない・書く時間がないため避けているのではとこれまで思っていたが、おそらく全く書けないということを露わにする内容だったのである。

 井上雄彦はスラムダンクで徹底してスポーツが”試合”の中で起きる葛藤や悦楽みたいなものを込めてきたところから勝負を描くことをスタートにし、バガボンドで一歩進んでそれが一対一での生き死にを通した”死合”(試合の語源。生き死にをかけるほどのことをしてはまずくなったので”試”になったらしい)へと変貌していた漫画家であると思うのだが、基本的に圧倒的な勝者や強者が主人公となっている。

 その中で「リアル」で描かれるのは様々なレベルでの敗者や弱者に落ち込んだ人々だ。バスケットボールに熱意がある奴だったのに、高校からドロップアウトしたり、またチームのエースだった人間が盗んだチャリの事故で事故に合い、下半身の感覚がなくなるほどの怪我を負い障害者となってしまい、順風満帆だった高校生活を失う。

 このようにスラムダンクと比較して圧倒的に悲惨な環境に落ち込んだ主人公たちが主になるのだが、現実では強者がスポーツの最前線で切った張ったの悦楽も悲哀も得ることは全くの希少で、そしてその成功譚や体験は神話やファンタジーの領域ですらある。大半の選手や人間はそこに辿りつけないのだ。(現実にプロ野球やサッカーで落ちこぼれた人間がその後の社会になじめず犯罪を犯すというのも最近見聞きする)「リアル」では車いすバスケットという舞台を軸に、いささか極端な形で主人公たちに大半の人間が陥る弱者や敗者のそれを象徴してみせる。自分はタイトルの意味はそういうことだと思っている。


 



 しかしである。この弱者や敗者を意図的に選んだ「リアル」にて、プロレスのことが描かれるのはいかんともしがたい違和感が先んじたのは確かだ。それは何か?

 見えない道場本舗氏は平然と近年のプロレスについて描いた作品の増加を「質的な豊穣さは、そこで増したといってもいいのではないか。」などと語るのだが、どう考えてもプロレスというジャンルの現在の目線に関してはまるきり悲惨なままであるという現状を逆に井上雄彦の生真面目さは露わにしているとしかオレには思えないのだ。

 近年のプロレスを描いたジャンルの薄気味悪さは、プロレスを描くための前提が弱者や敗者であることが前提となっていることが少なくないことだ。他にも猿渡哲也の「ロックアップ」では末期ガンを患ったレスラーが主人公であるし、振り返ればあの映画「レスラー」にしたってそうだ。


 まだしも「レスラー」には没落したレスラーを当時実際に没落していたミッキー・ロークや「ニルヴァーナはクソ」といって栄光の80年代を懐かしむみたいなフックも込みでのドキュメンタリー的な職能もあって見れたものになっていたのだが、そうしたコンセプチュアルな職能を持たない漫画では全表現が作者の認識にかかってくる。


 なぜプロレスを描く前提が弱者かつ敗者で観客の歓声のためにショウマストゴーオンばかりになるのか?やはりみんな小橋建太が好きってことなのだろうか。とはいえ、オレにはプロレスがインスピレーションとするものってそんな器の小さな部分のことだとは到底思えないのが本心だ。


 プロレスが弱者や敗者前提になる理由はそれこそミスター高橋やらWWEの株式上場のためのアナウンスであるとかで内実が明らかになることで「プロスポーツという体力や戦略を切り詰めた戦い」という側面が見えなくなり、なので「観客を楽しませるために体を張る」という部分に特化したことが一因にあると思う。そして「体を張る」側面のみに意味を重く持たせるために、障害者であったりかつてのスターが没落したりしているのである。

 しかし板垣恵介のような「真の強さとはわがままを通せる能力」といったように、プロレスが提示する人間力(バズワードかもしんねえなこれも)とは結局のところプロレスというジャンル自体なんてどうだってよく、そうした人間をみることそのものが目的でありそしてインスピレーションのはずだ。しかし映画や漫画でそういう強さを描く場合はプロレスを選ばずに、ほかの真剣勝負が前提の題材を選ぶのである。

 バスケットや格闘技を描いてきた井上雄彦や猿渡哲也がプロレスを描くことの逆説的な悲惨さはそういうことでもあり、これこそ村松友視のいったような「一回ひねり」だけのほとんど二元論みたいなレベルの認識であって、さらに菊池成孔でも加えれば「一回ひねりまでが日本人の食える限界」。KAMINOGEとか呑気に表紙に起用してるけど、それお前らの質や認識も落ちてること示してるって!





 以上を持って想像以上にプロレスというのは他メディアにとって乱暴に書けば「弱者が身体を張る」という点にウェイトが掛かっている非常に賛同できない視点ばかりが描かれているのがあまりに奇怪だ。往年のターザン山本なりがいたら井上雄彦を大バッシングしてくれただろうか?

 いまだプロレスを描いた漫画や映画では真にぎりぎりの切った張ったの瞬間というのを、「レスリング・ウィズ・シャドウズ」や「1976年のアントニオ猪木」といったドキュメンタリー以外のフィクションで実現したのを見たことが無い。

 業界や団体内部でのし上がるための戦いや打算、野合や離散といった悲喜劇といったたとえば今なら「半沢直樹」的な瞬間で描いたものがあってもいい(つっても1・5回ひねり程度だが)し、現実のプロレスの切った張ったの熱量は未だブシロードから白石加入全日本分裂見たってあると思う(つっても繰り返すがこの面ばかりをピックアップしても1・5回ひねり程度だけどな!)

 WWEなんて見てもスーパースターはたとえばストーリーラインを演じていたレスラーが、本当に実生活でもそのストーリーラインの人間関係になったなんて話もあるし、このあたりのフィクションと現実ラインの消失観なんてまさしく「レスラー」の監督のダーレン・アロノフスキー的であるし、オレには未だにクリス・ベノワのどうしようもない結末が発し続けるインスピレーションを誰も感知しいえていないのが不思議なくらいだ。

 プロレスを弱者や敗者のモチーフにするのは、それはあまりに浅い認識としか思えないし悲惨だ。正直、プロレス構造のカミングアウトどうのってどうでもよくてえげつない人間たちが切った張ったのやりとりして、時に自分さえも壊しながらその姿をさらし続けてる奴というのがインスピレーションになっていたはずなのだが、この程度のインスピレーションしか見られないのではやはりプロレス復活なんてほど遠いと思わされるのだった。
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テーマ : 格闘技    ジャンル : スポーツ

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