オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


PRIDEの片割れ・批評が作り上げたエンタメプロレス「ハッスル」再考・または猪木断絶のゼロ年代プロレス史

Category: プロレスの生む物語   Tags: プロレス  ハッスル  山口日昇  紙プロ    
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 2007年当時、はじめて興味をもって、プロレスや格闘技を見始めるにあたって、まず何から見たらいいのか皆目見当がつかなかった時に、手当たりしだいに深夜の新日本やノアの中継を見たりしていた中で、最も当時のプロレスの現状についてを逆説的に読み取れたのが、「ハッスル」だった。もう今では一端終わって全盛期のそれとは全く違う規模の小さなものになってしまったけれど、「ゼロ年代におけるプロレス」を語る時にはなんだかんだで大きかった、この「批評が作り上げたプロレス」について。 

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 前の記事にてゲームの謎解きからプロレスをゼロ年代の半ばからいざ調べ、見始めようとしたのだが、正直な話当時深夜帯に放映されていたノアや新日本などは初見では何をフックとして見ればいいか全く分からず、過去の宝島社のムックなどの資料から判断するに「リング上の闘いを想像力によって拡大させる実況を注目したらいいのかな?」などと思いながら見ていた。(これは過去のムックなんかでよく言われていた「アナウンサー古館伊知郎による想像力をかき立てる実況の言葉」を見始めた初期のフックとしていたせいもある。・笑)
 また、ずっと動けてる若い選手などが団体の顔として強く推されないというのも見始めた深夜放送を見ていて奇異に映ったものの一つで、そういう現在の若手選手の実力に見合わないエースの不文律を感じた中で、ノアの「丸藤正道」と「KENTA」選手が見始めた初期に、プロレスというジャンルの現在の違和感などを含み印象に残っていた。

 かといって、WWEが「現行のプロレス」を知る上で納得できるものとも思えなかった。ぶっちゃけた話プロレスを知る以前の認識は、まったく興味が無い中でボンヤリと普通に生活していて形成されたプロレスのコンセンサスは「何もかも筋書きの決まってるショーでキッチュなドラマを演じていくことで盛り上げるスポーツエンターテインメント」というくらいの酷い認識だったんだが、どうもそうじゃないんじゃないか?という謎を実際に解くに当たって、実際にWWEのDVDなどを見ても、明らかに日本のプロレスがソフトとして太刀打ちできる代物ではないとははっきりとわかりながらも、先のプロレスに対してのコンセンサスを綺麗になぞっている以外の新味は無かった。

 とはいえWWEのようなアメリカンプロレスが、一切興味のなかった自分でもプロレスの認識のコンセンサスを無意識下に形作っていたことが、ゼロ年代からのプロレスの在り方を示すヒントにはそこでなったわけで、日本格闘技史を振り返っていくのと並行して、プロレスというジャンルが格闘技側が盛り上がっていく中で「ストロングスタイル」と呼ばれた日本のプロレスの存在意義を示す概念が奪われていったことがゼロ年代の日本のプロレスの失墜を説明する時の大筋となっているが、そうした現状を見つめ、そしてWWEをモデルとした形式をベースにプロレスに対して数多くの代案を意識したと思われる企画を実践していたと思うのが、あの「ハッスル」だったと見ている。
 

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 場当たり的に様々なプロレスを探る中で、初めてハッスルを目にしたのはまだ小川直也がメインにおり、レイザーラモンHGやインリン・オブ・ジョイトイ投入前夜の「ハッスル注入DVD3」からなのだが、そこで展開されていた世界は凄まじいものだった。

 それは全面的な現状のプロレス界の批評だったからだ。一見単なる戦隊ものみたいな小川直也と高田延彦演じる高田総統による「ハッスル軍VS高田モンスター軍の抗争」が軸なのだが、正直この時点でこの構図が示す凄まじさが垣間見えた思いがした。つまり、あの当時のプロレス界では「そもそもの単純な対立構造さえ見えず、レスラーが何と闘っているのかがわからない」という現状に対してのもののように感じた。

 試合内容も10分前後で決着がついていき、こうした短時間で分かりやすい展開にて試合を構成する意図というのも全日本発の四天王プロレスというフォルムがプロレス界の中で最上の価値をされすぎていることに対しての代案のようにさえ映り、また小川VS川田にて行われた「観客ジャッジシステム」などなど、旧来のプロレスが立ちいかなくなってきている点に対して様々な代案を出す中で、逆説的にプロレス界の現状を見とることが出来た。「日本のプロレスを根こそぎぶち壊す」というのは額面通りに受け取れば単なる(プロレス十字軍ファン的には)不快な挑発だったろうが、ハッスルを作る人間たちのモチベーションに膠着する現状に対しての「批評」とそれに対しての「代案」が元になっていると興行を見て感じていた。 

 当時のハッスルのパワーの一つにPRIDEを運営していたDSEが主体となっていたことも「プロレス界を批評するプロレス」を構成したことに強い意味があると思う。
 「私たちがMMAについて知っている2,3の事柄」(文字クリック)でも少し書いたように、当時のPRIDEが決定的に増長していく契機となったのは代表的な第一回大会のメイン「高田延彦VSヒクソン・グレイシー」に象徴されるプロレスの価値観の大きな崩壊であり、この試合を境にプロレスラーの格闘技挑戦と敗退が数多く繰り返されることでプロレスの支持にほころびが生まれ始め、価値観が「ついに実現された全ガチの興行」という風に一律化されていくことの流れが強くなることに対して、プロレス側は膠着していくようになった。

 また、膠着の理由も格闘技の台頭だけに留まらず、この頃をあとに週刊ゴング編集長だった金沢克彦氏が執筆したアントニオ猪木氏によって格闘技と接触していたそのころの新日本プロレスの時代を振り返った本のタイトルに「子殺し」 というショッキングなタイトルが付けられたことに象徴されるように、業界内部からの破綻も大きく支持を失うことに加担していた。
 特に支持を失うことを加速させたのが、長年新日本プロレスのレフェリーを務めていたミスター高橋氏による『流血の魔術 最強の演技 全てのプロレスはショーである』の出版が大きかったとされているが、思うにあれがもっともダメージを与えたのは「プロレスがどういう風に出来ているか?」の種明かしをしたことではなく、「自分の属していた組織への一種の怨恨が核にみえる暴露」という後味の悪いものだったから今だ尾を引くものになったのだと見ている。むしろ、この後に活字で続いたのは決して高橋氏の建前だった「情報公開によってプロレスをやりやすく」ではなく「プロレス業界を暴露していく(気配がある程度で特に何も言っていない)ムックの流れ」というゲッソリするようなものになり、オフィシャルのサイドたるプロレス専門誌がかたくなになる一方で、そうした暴露をしたがり、そして見たがるという後味悪さが寄り添っているものになってしまっていた。

 かくしてプロレスを巡る状況がそうやって内外より抑圧を受けることによって膠着していくのに対して、一種攻撃的とも言える増長の仕方を見せたのがPRIDE・ハッスル擁する当時のDSEだった。
 PRIDEによる格闘技の台頭によってプロレスの役割を奪った外からの作用に対して、当時のDSEに紙のプロレス編集長・山口日昇氏が興行にも関わっていく中で(ソースはウィキ・文字クリック)生まれたプロレス「ハッスル」は、内から当時の膠着するプロレス界を批評と、それに伴う代案を提示していくことで力を発揮していたと見ている。

 DSEというのが一時期凄まじいまでの増長を見せた根底に、やはり何よりもPRIDE前時代からの永遠の問題であった「プロレス」、あるいは猪木が構成してきた世界と、それに引きずられたことによる疲弊というものに対してのものが起因していたと見ている。アントニオ猪木の世界観や感覚、それどころか対抗相手のK-1すら含めたありとあらゆるサイドの幻想や物語を、そして歴史を、こうして外のPRIDE、内の「ハッスル」という双方によって完全に断ち切っていくという、まさしくゼロ年代という時代の過程そのものであったと思っている。

 自分はプロレスの現在を「ハッスル」の批評と代案によって逆説的に初めて知り、ゼロ年代のプロレスの苦しみを理解した。「ハッスル」というソフト自体の純粋なエンタメとしての強度はさほど高くはないし、「学芸会」という揶揄を超えるほどの完成を見せたこともわずかだ。
 ハッスルには寒々しさがあった。それは提供される仕掛けとかギャグとかの問題ではなく、そもそものレスラーたちの機微や感情というものを見せることが切り捨てられていることだった。それどころかそもそものハッスルが力を発揮するポイントそのものが先の何の仕掛けもなく機微や感情を出すことを重視する旧来のプロレスの価値観の膠着を敵視し、批評することであったからこそ、そうした寒々しさに直結したと思う。全てが批評によって成立したという無二プロレスだったからだ。一時期の新日本プロレスに対しての攻撃的なまでのパロディを思い出して頂けると有難い。

 この時代より、そうした「ハッスル」を象徴としてプロレスのジャンルに生まれた一つの流れが、そうしたプロレスを見尽くし、プロレスに飽いたファンにて向けられる、「マッスル」などが行った「プロレスを批評するプロレス」というメタ・プロレスであり、ネットによって莫大な第一次情報が恒常的に存在し、誰もが一つの情報を送受信できる環境にある時代の相対化の果ての産物だと思う。

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 さて、旧来の価値を否定し、潰していくことがパワーとなっていたと思われるDSEだったが、フジショックにより経営が立ちいかなくなりPRIDEをUFCに売り渡して消え、いまやUFCが世界の格闘技界の前衛のたつことになったのだが、ある意味ではUFCが旧来の価値の膠着を否定する批判と代案としての「ハッスル」を行う可能性も今の増長と感じられる盤石から類推して有り得ると思っている。(オレはマジでここまでの文をタイプしている)
  「アメリカにおける「ポスト・ボクシング」としてのMMA」(文字 クリック)で触れたように、アメリカの格闘技興行の最も大きく歴史を持ち大衆に広まっているジャンルとしてボクシングがあるが、現UFC代表のダナ・ホワイトの経歴や言説を見る限り原動力としてアメリカボクシング業界への対抗心や批判の思いもまた現在のUFC運営の原動力になっていると思うのだ。
 つまり、ある意味ではダナ・ホワイトのボクシング団体とも極論すれば言える現在のUFCにとっての「ハッスル」が行われる可能性とはすなわちUFCによる独立ボクシング興行の開催だろう。 ボクシング界を見てきたダナの思想による、MMAファイターも越境して参戦する可能性のある、現状の業界に一石投じるかのような、批評と代案によるボクシング団体。確実に長期的に存続できるような代物にはならないだろうが、現在のUFCを見る限りそうした可能性すら感じさせるのだ。
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Comments

で、久々にコメントさせて頂く訳ですが、
ハッスルからプロレスを知る…というこれまでには絶対にありえなかったケースが大多数となってくるんでしょうね。
いやもうハッスルはないに等しいから、それすらも過去の遺物となるのでしょうか。

そもそもプロレスを心の底から楽しむには、歴史の勉強が必須という非情に厄介なジャンルでもあるわけですよね。
例えばハッスルのスタート時もいきなりハッスル第1章として始まった訳ではなく、橋本と小川の大河ドラマがありきで、高田の泣き虫が絡んできて…そうなると当然3人の師である猪木の存在も無視できず…かといって猪木自身はハッスルの登場人物ではないという…もうこれだけで入るのが面倒臭い人たくさんいるでしょう。

いろんな切り口で楽しめるはずだったプロレスが、マニアックな方向に行き過ぎて、ハッスルはそれを元に戻す為の実験だったのでしょうけど、所詮中身がなさすぎた!!

昭和新日本(平成Uインター)が存命なら、高橋本がベストセラーになった段階で高橋率いる“幽霊軍団”か何かが乱入してきて、長きに渡る抗争が繰り広げられてたでしょう。しっかりした試合内容で。
そうするとレッスル1もハッスルも生まれてくる余地など1mmもなかった訳ですから。
Re: 紫レガさん
> そもそもプロレスを心の底から楽しむには、歴史の勉強が必須という非情に厄介なジャンルでもあるわけですよね。
> 例えばハッスルのスタート時もいきなりハッスル第1章として始まった訳ではなく、橋本と小川の大河ドラマがありきで、高田の泣き虫が絡んできて…そうなると当然3人の師である猪木の存在も無視できず…かといって猪木自身はハッスルの登場人物ではないという…もうこれだけで入るのが面倒臭い人たくさんいるでしょう。
>
 ただ思うに上手くやってるところは新規参入者でも見ている内に自然と歴史を体得できるような世代間のグラデーション作ってあると思うンすよ。WWEならばリック・フレアーやショーン・マイケルズなど、格闘技だけどK-1ならピーター・アーツなど、第一線で推されているわけではないが彼らがレジェンドとして存在していることがその団体の歴史を見せてくれてる意味で大きいんですよね。旬をすぎたレジェンドがボロボロにも関わらず第一線のように扱われてしまってる団体だとキツくて、旬のエースの後ろで活躍することで歴史を見せることが望ましいです。

> いろんな切り口で楽しめるはずだったプロレスが、マニアックな方向に行き過ぎて、ハッスルはそれを元に戻す為の実験だったのでしょうけど、所詮中身がなさすぎた!!

 ゼロ年代の「批評エンタメプロレス」という、(僕が勝手に呼んでいる)流れは大元の新日本が膠着しているほどネタとなってパワーを出していたわけで、一通りの批評がやり倒されたあとってのがつらくなる。マッスルもハッスルもそれで終わったと見ています。逆に主に批評されてきた遠因として新日本が現状を理解して分かりやすくしていこうというふうに変わっていったと思われ、いつかのTAJIRI選手が語った「ハッスルは役目を終えたのかもしれない」とはそういうことなのだと解釈しております

> 昭和新日本(平成Uインター)が存命なら、高橋本がベストセラーになった段階で高橋率いる“幽霊軍団”か何かが乱入してきて、長きに渡る抗争が繰り広げられてたでしょう。しっかりした試合内容で。
> そうするとレッスル1もハッスルも生まれてくる余地など1mmもなかった訳ですから。

 あー、なるほど。それは見たい(笑)昔はアクシデントすらもそうやってビジネスに転化するダイナミズムがあったやなあ。
上手くやってるところは新規参入者でも見ている内に自然と歴史を体得できるような世代間のグラデーション作ってある<その通りですよね。
日本では90年代の新日本が最後のアレでしたけど、藤波長州がどっしり構えて(まだまだ動けた)、闘魂三銃士、馳健がバリバリでメイン張って、ジュニアはライガー中心にタレントが揃ってて…さらに猪木がスポットで出てくるという、もう完璧でした。
ただしその猪木が出てくる大会では普段バリバリにやってる選手が、セミまでに下がって、締めは猪木。
これが大きな矛盾点なのですが、日本のプロレスの場合歴史が一番重んじられていて、ポッと出の大型ルーキーなんかはいつまでもオーバー出来ないんですよね。

スキャンダルを経営に結びつける…これが力道山から始まるプロレスの正しい姿だったんですが、いつしか臭い物には蓋をするのが当たり前になってしまいました。
慧眼
米国のボクシングとUFCの関係を、日本のプロレスとPRIDEの関係に対置するのは慧眼だと思います。
>紫レガさん

>これが大きな矛盾点なのですが、日本のプロレスの場合歴史が一番重んじられていて、ポッと出の大型ルーキーなんかはいつまでもオーバー出来ないんですよね。

 これは「社長でありながらレスラー」という、ヒエラルキーのあり方が昭和から変貌しきれなかったから、という、ありきたりすぎる見方を取ってしまい、かつてのジャイアント馬場みたいな形が理想と思われるのですが、しかしゼロ年代の橋本のゼロワン立ち上げ、全日本の大量離脱に伴う三沢によるノアの設立などの三銃士・四天王世代の団体の設立など、社長が顔であり、率先して前衛に出ざるを得ない状況が、そうしたルーキーの上がりを拒んでる面もあるのかもしれません。
 新日本の場合は猪木の介入と抵抗によってグチャグチャの中なし崩し的に永田選手がIWGPを防衛しているというドメスティックの問題に拘泥してしまっていた印象です。

>長尾メモ8さん

> 米国のボクシングとUFCの関係を、日本のプロレスとPRIDEの関係に対置するのは慧眼だと思います。

ありがとうございます。UFCの打撃技術に優れるMMAファイターが、ハンパな戦績のボクサーを始末するかのような背景のダナによるボクシング興行の実践の可能性。クートゥアVSジェームス・トニーは、その伏線だと勝手に想像しております。

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