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UFC118・エドガーとメイナード/スポーツによるバイオレンスの封殺

Category: 「見立て」の格闘観戦記録   Tags: MMA  UFC  ライト級  
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 格闘技がスポーツになることというのは、それは歓迎すべきことなのだろうか?支持すべきことなのだろうか?それとも退屈と断じてしまうべきなのだろうか?そもそものスポーツとはなんだろうか?

 ライト級タイトルマッチの再戦にて、会場の観客たちは挑戦者となったBJペンに大きな声援を送っていた。

<<BGM ジョン・ケージ「4分33秒」(文字クリック)>>

 前回のタイトルマッチにて行われたBJペンVSフランク・エドガーの王座戦とその内容は、格闘技というものとスポーツというものの今だに決着のつかない相克について考えさせられる内容で、若干の判定基準に、見ているほうからも違和感があるくらい不備がみられたのでは?とかささやかれたことが今回の再戦へと繋がっていると思われ、ここ最近のUFCがよくやる「不本意に見えてしまった判定で騒がれているならば真の決着としての再戦」という、リョートVSショーグンなどで行われてきたやり方だ。これは日本でいうところのあのK-1MAXの魔裟斗VS佐藤嘉洋の試合に即再戦を組んで興行を引っ張るということをやっているようなものと見え、これが可能なのも魔裟斗一人の絶対スターという構図で興行が成立せずに複数のハイライトとなる選手を抱えているから、などども言えるだろう。

 興行性が先にあるかぎり、一種の判定の操作や違和感、もっとはっきり言ってしまえば「八百長の気配」というのは永遠に付きまとう。UFCとて基本は興行が先にあり、確実にそうした面から逃れられない面が存在していると考えている。興行を打つに当たってのアスレチックコミッションとの折り合いなども含めて、限りなく競技としての説得力を持っているかに見える現在のUFCだからこそ、自分が注目するのはそんな「興行と競技」の止揚という点だ。UFCには修斗のような厳密なランキング制度も設置されていないことも「興行」がやはり先にあることの一つの立証にはなると思う。

 興行と競技の問題をさらに掘り下げていくとどうしてもぶつかる問題は、古くから言われてきたことだろうが「格闘技とスポーツの相克」ということだ。前回でのペンVSエドガーの試合にて感じられたことはそこで、エドガーのこうした戦法に対して考えてしまうのは俗に言われる「ポイントゲーム」というやり方に見られる勝ちに徹したやり方のことであり、MMAという新興格闘技がスポーツとしての強度を持っていくことそれ自体を支持する一方で、格闘技というものが本質的に抱えているポテンシャルが封殺されてしまうことへの苦々しい思いもある。特に、古くは宇野薫から、五味や青木ら日本のトップコンテンダーを通して「世界ライト級最強」という気配を伝え、そして行われてきた試合でも、試合全体に覆う盤石で凶悪な気配というのを付加させていたBJペンだからこそ、エドガーの勝利がどうしても「決着」ではなく、「スポーツによる格闘技の封殺」に見えてしまうのだ。

 無論、エドガーを責められるものではない。今回の再戦によって完全にBJのやり方を見切っているかのようにテイクダウンを決め、打撃を見舞い、フルラウンド動き続けたエドガーに対し、BJのパフォーマンスの鈍さは際立った。前回の判定勝利への違和感を払拭するという意味で、「決着」を演出したUFCサイドのマッチメークの思惑通りとも言える完勝劇であったが、この試合から受け取れたものはやはり「スポーツによる格闘技の抑圧」という事態に自分には見えた。
 
メイナード

 純スポーツと格闘技が本質的な面で、どうしても局面で相いれることが無いと常々考えている。やはりそれはどういうレベルであれバイオレンスを取り扱っているからだ。

 とりわけ格闘技が他の純スポーツと比べてどれほど盤石な体勢に見える団体があったとしても、何かの拍子で崩壊してしまう、という反復の仕方は尋常ではなく、こうした格闘技というジャンルの性質についてを考える際の一面の見方に過ぎないが、暴力というものを取り扱ったコンテンツゆえにどうしたって社会性の部分に抵触せざるを得ないジャンルであるし、興行を売って商売とする際には常にそうした面とせめぎ合いながら続けていくことになる。それは表向きの興行が提供する暴力性に関しての取り扱いから裏向きからは暴力団との繋がり方など様々なレベルにおいての社会性との相反する面を全ての格闘技興行は抱えていると見え、社会的に認められた形のスポーツというものに対してのネガとして、格闘技の意味作用があると自分は見ている。スポーツになりきれないゆえにスポーツを超える可能性、スポーツというものの矛盾を撃つ意味が格闘技というサイドからは見えるからだ。

 ジェームズ・トニーが1発のジャブも打つことなくクートゥアに肩固めにて敗北し、ほぼ無傷で100万ドルのファイトマネーを得ると同時に行われた、このライト級のトップコンテンダー達の闘いを含んだこのUFC118は、MMAというものがスポーツに限りなく近づくことを見せる一方で、アメリカにて古くより支持されている、最もスポーツとしての格闘技の完成形と言えるボクシングに対しての攻撃を行ったように思えた。

 自分の今のUFCのハイライトとは、「スポーツと格闘技興行」という相克に対して、これまでの世界の格闘技興行の歴史がそれを行おうとして無視・失敗・崩壊・停滞してきた中でそれを止揚するギリギリのラインにまで座標を移動させている点だ。現在のUFCの盤石さは格闘技史的に今のところ誰も到達できていないだろうそれを実践している点にあると見ており、決して相いれることのない二者の止揚をどこまで維持できるのかが最もスリリングな点だと思う。

 エドガーとメイナードがおそらくは次のライト級タイトルマッチに組まれるのだろうが、その闘いがスポーツみたいなフォルムを許容するものになるのか、はたまた潰し合いの格闘技を思い出させるものになるのだろうか?ポスト・ボクシングに甘んじるのか、様々な格闘技のジャンルの中でバイオレンスの表出する可能性が高いMMAというものの恐ろしさを思い出させてくれるのだろうか?
 
 
 
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Comments

日本の観客や格闘技ファンのほとんどが受け入れられないであろうUFCの競技路線ですが、ボクシングとレスリングが文化として浸透しているアメリカという地であるからこそ、この路線がどこまで観客に受け入れられるのか注目されるところですね。逆に言えば、UFCが世界戦略路線を取るにあたって、アメリカ以外の地でこのパッケージが受け入れられるのか、ってところですね。
興行である以上、よりアグレッシブな試合が見せられるように柔軟にルールの改正を考えていくというのも必要ですね。現状のUFCルールだと、やはり、フランキーやメイナードのような選手ばかりが得をするという感は否めません。
銀玉さん
 UFCの世界戦略路線という意味として「アメリカのスポーツがヨーロッパに輸出される」という視点から考えると、今後ドイツ大会など開催することに見られる開拓の意味などを考えると、自国=世界ということでNBAもNFLもアメリカ中心でヨーロッパリーグの開拓の話など聞かない中で、米国スポーツ史的にさり気にすごいことやってんじゃねーのかなーと見ております。

 ただ今時点でのこの意見、アメリカスポーツ史の海外への浸透の歴史をさっぱり調べてない文脈のものです。過去にボクシングやプロレスリングなどなどの興行のみの輸出の歴史があるのかはゆっくり調べるつもりですが、もしアジアやヨーロッパ圏にUFCを根付かせるために現地でのTUFが行われる、などの展開になれば、まさに欧州と米国という世界の相克をも止揚する、と見えてさらにスリリングなのですが。

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