オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


異形はどこへ消えた?

Category: プロレスの生む物語   Tags: ---
マッチジェウ

 完全にアーカイブから振り返っている側の自分としては、昭和の新日本の映像を見て、当時の空気や気配に関して想像するしかないとはいえ、決定的な断層を感じるのは当時のタイガー・ジェット・シンやアブドーラ・ザ・ブッチャー、そしてブルーザー・ブロディ、アンドレ・ザ・ジャイアントなどのような、「本当の感情なのか、それとも演じられている感情なのか?」の判断が曖昧な時代のことだ。ここのところ昭和という時代も一種一律化されている印象がある中での、「異形性」に関しての考察。

―そして、同時になぜ今の日本人MMAファイターが、プロレスラーが「自己像」の形成を妨げられるようになったのか、の考察。

<<タイガージェットシンがサーベルを振るい観客席へと向かう。観客が席を立ち逃げ惑う。シンが空いたパイプ椅子をつかんで逃げ惑う観客たちに投げつける。>> 

 典型的なヒール像として今だこうして挙げられることも多いタイガージェットシンの映像を自分がこうして見て思うのは、やっぱり「これのどこまでが演じているのか本気の感情によるものなのか?」が曖昧に見えてしまうことであり、すでに今現在では情報も揃っていて「まっとうなビジネスマンとしてそういう風に関わっていた、リングを降りれば紳士そのものだ。あれは演じているのだ」などと判断が下されていようと、しかしすんなりと納得がいかない。
 
 そもそもの「演じる」という行為自体にあの時代や国別のメンタリティを越えて日本の現在とで差異があるのは確かだ。シンの暴動に対して静かに思うのはそこで、今のプロレスが「キャラを演じている」ということがハッキリしていることに安心する一方での、かつてのプロレスのリング上にいた彼らのような外国人選手が放っていたオーラのゾワゾワさせられる異形性は、レスラーの演じるという概念が今と異なることに由来しているように思った。

<<アブドーラ・ザ・ブッチャーが流血しながら、あの片膝をつく独特なフォームでの手刀を喉元に打ちこむ。>>

 とはいえそうした異形性というのがレスラー本人(または提供する団体側)の資質や能力のみによって発揮されていたようにも思えず、あの時代は今のように過度の情報によって相対化されることが恒常的となっている時代ではなく、今だったら即ブログなりツイッターなりで確認できるプロレスラーのオフでの姿というのを想起しにくい(というかオフが存在しない)時代であったともいえるし、またレスラー本人にもそういう状況と環境の中で自身を演じてた、という観客側とレスラー側との認識にまだ境界線を引くことが成立できていたことによってきっちり分けられていたというのが大きいと思う。「異形性」を感知するところに、彼らレスラーについて観客たちがその実像を壊してしまうほどの情報があったわけでもなく、レスラーたちも作り上げた自己像とそれらを欲する観客の欲望に応えるように振舞っていたというように境界線がきっちりと敷かれていたという環境であったことも関係があるように思う。

 印象というのは「異常なほどの体格」だとか「制御不能の狂気性」だとかの対象のみによって形作られるものではなく、観測するこちら側との意識の折り合いによって形成されると考えられ、自分がYOUTUBEなどで過去の映像を確認して感じられたのがそこだ。シンやブロディの暴動とそれらを「マジなのか演技なのか」の(今からすれば)一番柔らかい疑惑のラインで止まった状態にて、レスラーたちの挙動を認め、そしてレスラーたちも観客の欲望や想像に沿うかのように、「演じる」と言う事以上に自身の人格自体を虚像にアジャストさせているようでもあった。「異形性」というのはそうした空間によって形成されていた面もあるように思え、数多くの人間が「プロレスラーは選ばれた人間がなる職業」ということが信じられているゆえだと思った。

<<スタン・ハンセンがアンドレ・ザ・ジャイアントにボディスラムを見舞う。会場に叩きつける音が響くとともに「ハンセンが5人目です!」の実況が流れる。>>

異形

 昭和にあった異形性は一体どこへ消えたのだろうか?

 80年代半ばのUWFによる、「真剣勝負による格闘技でありこちらが本物」といった初期の「プロレスは真剣勝負か否か」への懐疑もしくは抵抗に端を発する一種の相対化の流れが起こり始めたのと応じるように、情報化によって簡単に裏を隠し通せる時代ではなくなっていくにつれ、観るこちら側の環境に変化が起こっていったことが大きいだろう。

 そのように観客たちの、そして社会の平均的な意識が情報の整備などによって変革されるにつれて欲望とその投影としてのレスラーの質も大きく変化していく。格闘技を志向する流れの中からでは「観客たちの欲望に応じてその虚像を背負う」みたいなことをどんどんと捨て去っていき、今ではそのことが一切理解できなくなる一方で、プロレスは90年代のWWEの歴史などを見ていても非常にビジネスとして明確なフォルムとなっていったと思う。 レスラーが背負う虚像の質も明らかに「人格自体を観客の欲望にアジャストさせ続ける」などというものではなく、今ではそれはオンオフが完全に分かれたものになっているし、一線にいるレスラーたちのリング上での演じ方を見ていても誰もがどこにでもいるような常識あるビジネスマンのようにさえ思える時がある。どこにでもいるような一般常識人の中でのレスラーの認識の集合的無意識というものの平均値を常識あふれるレスラーがなぞっているかに見えるわけだ。

<<ブルーザー・ブロディがコーナーポストから高らかに飛び降り膝を落とす。驚いているような、でも考えられているのか、曖昧な表情で>>

 異形性が消えたのは決してそうした資質のある人間自体が発掘されなくなったなどということではないと思う。それは見る我々の側の認識が数々の情報整備により数限りない相対化が行われていくことで変化していくことで、「プロレス」の未解明さを「真剣勝負の格闘技」によって解き明かしていってしまうことで、「ただのキッチュなもの、格闘技のふりの演劇」と相対していったように、観客たちの基本的な認識と欲望に変化が訪れることによって、その欲望を演出するレスラーや団体もどんどん割り切ったビジネスマンの表情をまとっていくことになる。WWEのレスラーなどはそうした欲望の生存競争の激しさの中で、「異形性」とはまた別の表情であることは間違いなく、どれほどの体躯を誇る人間だろうと誰もが見切った実業家のように映るし、彼らが抱えている本当のケーフェイは「プロレスラーは本当に強いの?」「プロレスは真剣勝負なの?」というような子供の純粋な疑問と全く別ものの本物の血生臭いビジネス上のポリティカルな類の事情であると思われ、「人生をかけて、生活から演じきることで自己像を形成する」ことで守っているものとまったく別ものだろう。

 異形性を消したのは、資質ある人間が発掘されなくなったかったからではなく、世界の近代化が形成されていくにあたって、人類の認識や自我を相対させていくことによって変革させた情報そのものだ。情報とその相対の中で、もはやいちファイターが人生を賭けて他者の感情や欲望に合わせ、自己像を形成していくなどということ自体がキッチュな代物と化し、世界が情報のあふれる近代化した中での観客の欲望に合わせた自己像の形成というのはファイターの実人生と観客の人生の交錯(この辺は格闘エンタ批評十段つるじょあのおっちゃん引用)を意味するものではなく、選手とも観客共にクールなビジネスに徹した感情へと移行していった。

 こうした「異形性」を巡る自己像の形成の問題はプロレス・格闘技界のみに留まらず、まったくの他者に対しての欲望や感情を代行するあらゆるビジネスが直面している変動であり、近い構図で言えば「アイドル」や「歌手」などなどであり、これらも間違いなく昭和と今とでは概念が変わってしまっているものだろう。
 そうした異形性の初期の相対化の方便に「等身大の~」とか「ボーイ・ガールズ・ネクスト・ドア(隣に住んでいるような少年・少女)」という言葉が流行ったが、それも観客の欲望を演じ、感情を牽引する異形性が先にあったから成立していた言葉だし、現在のある種の不幸はもはや観客の欲望に、感情に呼応して自己像を形成し、人生を演じるという感覚そのものが消えてしまったことだと思うのだ。

 特にプロレスでの自己像の形成によって生まれる異形性を「真剣勝負の格闘技」によって相対化していくことで、「自己像の形成とそして演出」をも結果的に解体していってしまう事で、ファイターとしての自我というものがもはや観客の欲望と感情を牽引する自己像の形成を無視した、自らの感情の発露の手段としてのもの以上のものを持たず、他者の前で形成した自己像を演じるという行為そのものが消失した現在を青木真也選手の試合後の号泣や、石井慧への会場の沈黙が証明しているように思えた。観客の欲望にもっとも相反する行為は、それは演者の自意識の発露に他ならない。



「そして、ゼロ年代の中の異形」(文字クリック)

 
 上のYOUTUBEにて飛べるが、かつてのハッスルの番宣「どハッスル!」にて、「芸人がトイレにいる時にブッチャーとシンが入ってくるドッキリ」を見る。

 もうすでに「昭和の異形性」というものもバレつくし、こうした深夜の企画にまで起用されるくらい、キッチュさも手のひらに収まるくらいにまで異形性を相対化されつくした二人だったが、藤波モノマネの第一人者・ユリオカ超特Qが用を足している時に、シンが襲いかかるその時の蹴りの入れ方に、あとでケンドーコバヤシらがドッキリを明かしに現場にくるのだが、そこでユリオカは「シン本気で蹴ってるよ・・・」と呟いた。

 情報による相対化の世紀をまたいでなお、決してバレはしない、異形性のコアの部分とは全人格を賭けて他人の恐怖の感情や欲望を演じることに生涯を投じることそのものだと自分は感じた。もう演技には違いないことがわかっていても、それが本物の感情なのかどうかが曖昧に見える瞬間がある。それはさらに広くまで考えれば、情報というものが限定されていた時代ならではの「自己を演じる」という概念がそのまま出ているようにさえ思えた。昭和という時代の曖昧さも、情報化が加速する現在ある種の未解明さが表層的には消失してきているが、いまだどれほどの言葉を尽くそうとも解明しきれない謎がある。

 今の自分にとってのそうした昭和の未解明さとは、逆説的に現在の世界というものが全て情報によって表層的だろうが解明されて見えることが前提となっていることであり、つまりは「未知の他者の前で、欲望や感情を演じること」そのものの概念が無くなっており、そのことの認識や自我においての影響というのが、ファイターの他者に対しての自己像を形成するという行為の消失を招いていることに見られるように思うことがちょっとした憂鬱になっている。
 もはや「プロレスラー=怖い未知の異形の人」とは誰もが思っていない中、こうした番組で他のレスラーが出演する際には半笑いになりながら蹴りを入れるだろう中、シンは今だ本気で蹴りを入れることで演じられる異形性を崩さないようにしていた。

 「本当の感情なのか?それとも演技なのか?」が問題ではなく、そういうのがバレきっている現在でさえ、自分がもっともその「異形性」を感じるのは、「どうしてそこまで狂気を演じようとするのだろう?そして演じることができるのだろうか?」という点だ。そこの概念の在り方が自分の中の昭和と言う時代の在り方と遠くで繋がっている。
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