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信じた時代の虚像と実像を切り分けられるのは、きっとしんどい『1984年のUWF』

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 総合格闘技という現実が国内にもたらしたものは何が最強かを明らかにすることだけではなかった。そこにいきつくまでに培われたプロレスの虚像がかき消され、実像が明らかにされていくことでもあった。プロレスと格闘技の観点を決定的に変えたイベント・PRIDEがUFCに売却され、格闘技バブルも弾けていく2007年に出版された『1976年のアントニオ猪木』はあらためてなぜプロレスと格闘技は地続きになったのかを明らかにする中で、あの時代の実像がいったいなんだったのかを明らかにしようとした。

 格闘技バブルがはじけようとも、プロレスと格闘技を観るリアリティラインが書き換わったことは変わらない。もうIGFのプロレスに闘いとやらを見出すことは難しい。プロレスが最強をうたって他の格闘技のチャンプを自分のリングに挙げて仕留めることに興行的な熱狂を見出すということもない。ジャンルの区分けが明らかになった現在のリアリティラインから、過去はなんだったのかを新たにする優れたノンフィクションが続々と出てきている。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』には本当に感銘を受けた

 しかしプロレスと格闘技の虚実を明らかにしていく作業の中でも、UWFの虚実を明らかにしていく作業は遅れてきて知った自分からしてもしんどい作業になることは分かる。「プロレスを本当に格闘技に見せる」という虚像を実像に変える試みを整理することだから。 『1984年のUWF』はMMAが当たり前に存在している現実から振り返って、虚像と実像を切り分けていく。



 number連載時のふるきちさんの批判を先に読み、それから本書を読み終えて感じたことは、やはりUWFに関しては虚像と実像を切り分けるときの反作用が大きすぎることだ。日米問わずプロレスのノンフィクションの面白さは、ファンでもどこか曖昧になっている虚実を切り分けるカタルシスと、しんどさをもたらすことだ。

 虚像と実像をはっきりさせることのしんどさは、正直「1976年のアントニオ猪木」ではそこまで感じなかった。これは猪木単独をフィーチャーしているのもあるし、なにしろ本人証言や周辺証言だけだと虚実がぶれるので、MMAが現実になっている視点から膨大な証言や資料から事実を構成していくスタイルの柳沢氏が、文庫版の「完本」では最後に猪木にインタビューしていることで、いちおうの筋を通しているというのもある。

 だがUWFに関しては、一人の人物をフィーチャーしたものじゃない。前田日明、佐山聡、藤原喜明など数多くの主要人物が入り乱れており、しかもおのおので向いているものが違っている。そこで虚像と実像を切り分けるということは、誰かが実はまがいものだったんじゃないかということを明らかにしてしまうということだ。

  おまけに「格闘技を、真剣勝負を目指した」ということも拍車をかけている。なにしろ、UWFを当時見ていたファンの逸話でも信じ込もうとしたというエピソードがいくつもある。この信じ込もうとすること自体がある種の負担になっていることは想像に難くなく、「やっぱおかしいんじゃないかな、違うんじゃないか、でも信じなきゃ」というあの感覚をはっきり切り分けてしまう。UWF自体が真剣勝負ではなかったというのが今明らかであったとしても、選手の中の誰かを(どうあれ)信じ続けてるのは、いくつかのファンブログを見ていても感じることだ。

 だが『1984のUWF』ははっきりと虚像と実像を明らかにする過程で、各人物が切り分けられていくのである。柳沢氏の著作らしくなにか曖昧にしておきたい部分もあえて断言して書ききっているのもあり、信じたものが引きはがされる作用は強い。何か無理にでも信じていた自分が0になってしまうんじゃないかと、信じて推してきた当時の選手がMMAで簡単に敗戦してしまうあのしんどさを思い起こさせもするのだ。




 では『1984のUWF』は何を主軸として虚実を切り分けていくのかというと、UWFが目指したとされる「真剣勝負の格闘技」を実質実現したMMAの成立に、はっきりと寄与した事例からだ。その実像に寄与しなかったものは、おおよそ虚像として切り分けられる。

 本書の表紙がなぜ前田日明ではなくタイガーマスクなのかもそうした論旨ゆえだ。修斗を興した佐山聡と、彼の弟子でゴルドーとヒクソンと闘った中井祐樹が本書を構成する中核となっている。佐山聡は新日本時代から本当に現在の総合格闘技の形を模索し、実現に移していくことがどれだけ後で今日のMMAに影響を与えたかが描かれる。一方、「UWFこそ本物なんだ」と信じこんだ中学生時代の中井祐樹が大学に入り、高専柔道を習得する中で観たUWFがキャメルクラッチで決着がつくという、柔道ならありえない展開で心の糸が切れ、なんと前田や高田に対して挑戦してやろうと息を巻くまでにUWFに怒りを覚えていたというエピソードが描かれる。

 つまりプロレスを真剣勝負と信じ、裏切られ、本格的に総合格闘技の時代にに入るまでにUWFという虚像がどう出来上がっていくのかが、当時の新日本プロレスのぐだぐだになった内部事情や、うさんくさい出資者との絡みでなんとか存続していく事情も込みで描かれていく。

 さらに活字メディアにて「真剣勝負のプロレス」というイメージを先行させ、いかに虚像が肥大化していくのかが描かれる。テレビ中継がなく、試合レポートやインタビューを頼りにしていたとのことで、週刊プロレスがその一因を担っていく様はダイナミックだ。当時の記事を担当していたターザン山本がどれだけの人物であったのかを、本書は「慧眼というほかない」など高い言葉で評価しているのもすごい。ある意味で1984年の山本隆司としても読める点がおかしかったりもする。



 佐山聡が新格闘技に着手し、実現に向かう一方で新生UWFが発足。ここからはイデオロギーを押し出している一方で、いかに実態とかけ離れた虚像が膨れ上がっていったのかが描かれる。本書後半の新生UWFの章は、佐山聡がほんと格闘技にする、真剣勝負にすることに意味のある行動を取っていたという前半部分を根拠に虚実がはっきりと切り分けられる。その反作用というのはあまりに大きい。

 そう、ヤバいと思われる瞬間を見せながらも、ついに決定的な敗戦を見せることのないまま引退した前田日明が、はっきりと断言していく過程で虚像として切り分けられていくことが、本書最大のしんどさである。老いていく猪木とのコントラストでカリスマにまでなっていく当時のムードが描写され、虚像が限界まで肥大していく様が描かれる。しかしその実態はろくに練習もしておらず、対ジェラルド・ゴルドー戦で実質的な競技能力は立ち技にほとんど対処できないし、レスリング選手だった松波健四郎に「まるでレスリングのかまえがなってない」などと評されるのだ。

 きついのは国内のMMAへの意義から振り返った場合に猪木は「1976年の~」で虚像を整理する一方で上手くまとめられているのに対し、本書では前田がMMAの現実に寄与したものがまるでないように描かれる点だ。UWF以降でも佐山と修斗のエピソードは綴られるけども、前田にしてもリングスにて国内で最も早くヒョードルやノゲイラ、アリスターオーフレイムを発掘してきたというのは確かじゃないか…なんて、自分でもフォローを入れたくなるが、柳澤健はそんな論旨がぶれるようなことはしない。

 この構成もあってか、前田日明が実は競技能力はさして高くもなく、総合格闘技のコンセプトはオリジナルというより剽窃である。さらに周囲とやりあい、孤立していくというさまが本書では奇妙に印象深く残る。佐山聡のプロレスと格闘技双方での功績を称えるのと対照的に、前田日明は虚像が肥大しすぎたのを切り分けるかたちになっているせいだろうか。

 柳澤健の、ある論旨を主軸にしたうえでの断言と編集による切り分けは、ついに決定的な真剣勝負での敗戦を見せることのないまま引退し、今日でもKAMINOGEでインタビューを受け続ける前田日明を切り分けようとしている。それがどれだけ正確かはわからないにせよ、信じつづけられるなにかを0にするような、しんどい結果だ。


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テーマ : プロレス    ジャンル : スポーツ

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