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格闘技の「競技化」の視点のその討論と不毛/世紀を越えて転移する「八百長とガチ」への懐疑・Ⅱ

Category: ウェブ線上の批評   Tags: UFC  ガラパゴス  ヤオガチ  
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 ツイッターを始めて見てリアルタイムにて流れる様々なファンの言説の中で、悪目立ちすると感じるのが今現在においての格闘技の見方に置いて「競技で観るのかそうでないのか」という討論は、自分としてはやっぱそれは昔から続くあの論議の構図の相似のようにしか思えないのは確かだ。というわけで今回は「ロングスパッツとステロイド/世紀を越えて転移する「八百長とガチ」への懐疑」(文字クリック)の続編。

<<第一部 考察・「矛盾と止揚」 >>

 昔から八百長・ガチンコの論争とはプロレス・格闘技について語る際に誰もが即効でその本質について語っているように錯覚してしまい、しかも答えの見えない問題ゆえに一回言い出したら底なし沼のようになってしまう上に、結果的にどんどんプロレス・格闘技を語る本質から離れていく行為だ。

 しかし前回のロンスパやステロイドについての論争に関してはその底に「DREAMへの不信感」という構造が分かり易かったのだが、そこから突き詰めていくことでさらに強硬化した「競技としての格闘技」を叫ぶ視点とそれに対する懐疑の視点の対立という不毛な論争などは、やはり先のヤオガチ論の構図と相似形の、今この時代ならではの誰もが簡単の格闘技の本質論に語れている気になりながらどんどん本質から離れていく底なしの行為なのだと思った。(※「競技化を叫ぶ視点」といってもスター選手同士の階級を越えた対戦の興行性に対して過剰なまでに否定し、「スポーツとしての格闘技を見ろ」と感情的に叫ぶファンやメディアの言説のことを言っており、現実に競技性を設定しようとする選手・運営らの関係者に対してのものではない。無論、多少重なるのは承知だが。)


 先に結論を書いておくと、自分にとっての「格闘技の競技化」とは興行の社会的地位の確立や選手の生命を守る機構として必要でどんどん推進してほしいと願うほうだ。以前の「エドガーとメイナード」(文字クリック)での「スポーツが格闘技を封殺するのか?」という感想といささか矛盾する意見とも捉えられるかもしれないが、現象学的な見地の一方での感想と別に格闘技が社会的なレベルで反目せず適応していくことに関しては基本的に支持している。まず、「競技化されている=すなわち一部の隙もなくガチである」みたいな意味での「競技」みたいな考えは無く、やっぱり先の競技推進派とその懐疑派の論争の底も結局のところそういう意味で話しているとしか思えないわけだから、ヤオガチ論議というのは格闘技サロンの永遠の、(別に誰も設定していないにもかかわらずの)議題のようだ。格ヲタ同士が電車内でGSPのレスリングによる試合の支配の仕方に飽きるまで話して、目的地まであと3駅くらいって時に話題が途切れて無言になっている時にこの議題がその間を潰すために常にベンチでアップしているのを想像するくらいだ。

 それにしても「サッカーみたいな純スポーツのように格闘技を見れないのはなぜだ?」みたいな問題が格闘技興行観戦の際の疑問にある方々も少なくはないとは思うが、おそらく最も競技正統性が保証されるフォルムとして格闘技が社会的に認められ国家に認知される存在になってしまうレベルにまでいって権威がバックボーンになってしまうことが一番だとやや乱雑かつ乱暴に考えてしまうのだが、そうすると必然的に生々しい暴力性の表現が目的ではなくなり、型を表現し、その枠内で競い合う「武道」になってしまうし、国家と格闘技の関係性による武道化、そして権威の問題、に関しても言及したいが脱線して戻ってこれなくなってしまうのでそこはまた別のエントリを作成するとして、やはり、あまりにも単純なことな上に忘れがちになるが「バイオレンス」という面が純スポーツとしては完ぺきに社会的に相反せざるを得ないものであり、そしてそれこそが格闘技興行においてスペクタクルを呼び起こすものであることだ。

 最近の記事での発言との反復になるが、格闘技から生生しい暴力性を排していって、本当に「競技」というフォルムになったものとは、それがレスリングや柔道などであることなどを考えても、格闘技が「プロ」として世間に提供するスペクタクルにことの強弱さえあれどバイオレンスが設定されている以上、他の純スポーツが設定している勝敗を重視した(いささか短絡的な判断であるが)攻防のスペクタクルと別であるゆえに、膠着が許されないことなどを代表的に議論を呼びこむことになるのだと考える。
 
 やはり格闘技はどうあれ純スポーツとしては一種の矛盾を孕んでおり、その「プロ格闘技」の矛盾をギリギリまで止揚したものがプロボクシングであり、初期からのK-1はそこに行こうとしているかに見えたが歴史の中でつまずき、半端な競技性を感じられるようなフォルムだけは完成してるという捻じれを起こし、そしてダナホワイト率いるUFCによるMMAがそれに続こうとしている、というのが今現在の世界のプロ格闘技興行のバランスだと自分は捉えている。
 プロ格闘技が他のプロスポーツが生みだすスペクタクルの最も生々しい感情に関わるものである以上、社会的にどうあっても反発してしまう側面もさることながら、権威性を元にした客観的な正統性もまた設定し辛いものであるし、その意味では一種の矛盾とその止揚を見とるジャンルであると自分は考えており、かつてのプロレスに対してのヤオガチ論がそうした矛盾を内包した曖昧さをはっきりさせたいという苛立ちや不安の感情から発生しているのと同様に、格闘技においての、選手や運営側の具体的な安全に関しての議論と別に、ファンの競技論に関しての議論がナンセンスに映るのはそこだ。


<<第二部 分析・「議論の発生・その底にある感情」 >>

 が、しかし、こと現在の日本の格闘技興行を巡る状況について限定して考えていくと、ここにきて頻発している「競技」を巡る言説の憂鬱は深い。
 そもそものヤオガチ論=今日の競技論と仮定して考えている中で、そもそもの論議の発祥がどちらにしても「一種の矛盾を内包しているジャンルをなんとかはっきりさせたい」という感情に寄ったものだと考えられ、さらにその感情に関して掘り下げていくと、その核にはファンの現状に対してのヒステリーやフラストレーションが反映されてのものと思う。ヤオガチ論義に加え、対置する競技論の発生の底にあるのはそこだと邪推する。

 それにしても、やっぱ暗い結論になってしまうがこの先メジャーの凋落が深まるほどにファンのいたずらな競技化論に関しての議論の発生は起こりやすくなっていくように思う。格闘技というジャンルが正統性に関して議論される瞬間というのはファンのフラストレーションの深さが極に達してのものともいえ、例えばこの前のDREAM16にてその興行を沈黙させた要因として石田光洋選手の戦法などがやり玉に挙げられていたが、自分は石田選手が要因とは一切思わず、むしろファンの現状のDREAMに対してのフラストレーションの行き先に「塩漬け」「膠着」などというプロ格闘技を批評するにおいてあまりにも分かりやすい面に夜中の街灯に向かう蛾の如く向かっていくことから議論が巻き起こったのを見ていて、この先もまたこういう形で日本格闘技がアイデンティティを再構築しきれない限り、ファンのフラストレーションはあまりにも単純な「膠着」を起こす選手を槍玉に挙げ、そして競技化を巡る不毛な議論を巻き起こすのを想像する。

 過去のプロレスにおいてのヤオガチ論がまだしも認識を巡っての思索に富む面があるのに対し、格闘技の競技化を巡っての議論の憂鬱さは、それは議論の元となるフラストレーションをベースとしたヒステリーの感情があまりにも強いことにある。

 そしてここからはオレ個人の感情なのだが日本格闘技のアイデンティティの再構築にUFCによる領土化、が一番手っ取り早いのだとしたらそれはまた日本の戦後の歴史の構造的にも、そもそもの「日本」自体の自己像の構築という視点にまで援用して話を広げて考えても、それは苦笑が凍りつくかのような気分になる。そうなることがきっとファンのフラストレーションを解消し、そしていたずらな競技化論を消し去る答えなのかもしれないが、この問題に関してはまた別の記事になる。次の「マイケル・ピスピンVS秋山成勲」にて日本格闘技のアイデンティティ再構築と米国の関係を考察していこうと思う。

 
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