オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


アジア資本家御前大会としての渦中のK-1GP・メジャーのアイデンティティ

Category: プロ格闘技   Tags: ---
ワイナリー

 PUJI資本の導入という今年最大の事態は、あるいは今のK-1というコンテンツがどれほどの強度なのか?そしてスタッフたちも、出場する選手たちも一体どれほど今のK-1というコンテンツを俯瞰して評価できているのか?というのがジャッジされるものなのだと今回のK-1を自分は考えている。

(※とりあえず投資家が興行の出来不出来によって投資するかが変わるのかの経済面の構造というか、今現在の「K-1」の魅力というもの自体の認識をスタッフ・選手がどれくらいのレベルにおいているのか?を見とるのを重視したもので。)

 1993年にUFC・K-1などが出現したことによる「プロ格闘技創生のシンクロニティ」は今も語り草だろうが、初期の格闘技を世間に浸透させる際に本当に労力を払っており、アンディ・フグはじめバラエティに進出させていったことなども含めて認知度を高めていったことで今日のブランドを保てているのだと思うが、投資家を募るほど追い詰められている現在、先のUFCで言えば初期の体勢からズッファ社に運営体制が変わった時などと状況を比較して考えてみたい感じもあるし、あれでUFCのフォルムがボクシングに隣接していったりしたことなどの変化だとかがK-1に起こるか?なども考えるが、とりあえず今回はぶっちゃけ、中国の投資家に頼るということで、ある意味では1993年以来の未知の「世間」に対してどういうアピールをとるのか?が重要と考える。

<<アリスター・オーフレイム vsベン・エドワーズ KOのスペクタクル>>

 そもそものK-1の醍醐味とは何か?を類推しなおすと、日本における大衆にとってのプロ格闘技全体の醍醐味の基本系を形成してきた歴史でもあると思われ、今大会で注目すんのはやっぱそういう面だ。
「格闘技のプロ」がすなわちプロレスを意味していた頃から、真剣勝負の格闘技を世間に届くメジャーにしていくには、その興行の由来となる歴史を踏まえたうえで、ともかく見る人間にわかりやすいフックを選手のキャラやファイトスタイル、Koを生み出しやすいようにするルールをともに制定していくことで生み出してきたのがK-1と思う。

 暴力性を抑制していくことで格闘技が柔道やレスリングのような「スポーツ」になることはそのフォルムから言っても、勝利が最大目的となる固い戦形であっても既に最大のスペクタクルである暴力が抑制されることでそうした強固な競技のフォルムを形成した以上、膠着が後で選手チームの反省にていろいろ言われるのかもしれないが、表だって叩かれることが無いのに対し、プロ格闘技はKoや一本を取りに行くという、大なり小なりの暴力性のスペクタクルが求められるゆえに「プロ」であり、暴力性が抑制されたままでのプロスポーツ「プロ柔道」「プロ柔術」がほとんど成立し辛い以上、膠着がプロスポーツと別にプロ格闘技においては糾弾されるのはそこであり、そして永劫の矛盾だ。(この問題はヤオガチ論争の不毛とも尻尾で繋がっているが。)

 初期から膠着排除を目指したことがこのコンテンツが国民的に浸透し、世界各国にまで放映されるまでになった一因にやっぱアマのスポーツのガチ性をまんま転用してもとてもじゃないが持たないことを石井館長も熟知しており、当時のプロを成立させるために仮想的としながらノウハウをリングスと協力することなどから吸収していったことが大きいのだろう。

<<セーム・シュルトVSヘスディ・カラケス 波乱の可能性>>

 そんなプロ格闘技のパイオニアK-1の失墜を象徴するような、前項の石井を擁したDREAM16にてさらに嫌というほど思い知らされた「メジャー」の崩壊の一つのような試合がここ最近にて組まれた。「アンディ・サワーVS日菜太」だ。
 
 SBのMMA選手の挑戦はその立ち技のキャリアを積むという意味や、例えば青木真也のように一瞬で極める能力のある寝技師による立ち技というものも生かせる機構のあるルールで過去に佐藤ルミナや桜井マッハ、弘中邦佳らが参戦し、結果を残しており、純粋なキック挑戦よりもMMAファイターの立ち技挑戦の意味においては機能しているように思える。

 しかし純粋なキック・K-1ファイターによるSB参戦というのはこれまでにあったのだろうか?SBに参戦するメリットやヒエラルキーの関係から言っても思いつかない。試合は40秒弱、サワーがチョークにて日菜太を沈めるという結果の何の意味の無さは、もはや「SBがK-1より強いんだ」とか10年前なら異種格闘なんとかって喜んでいられるようなもんでもなく、今のK-1が資金難で組めないからこうして下部団体にてMAXが組むべきカードが実現するも、しかしそこは全くキックやK-1と別の土壌で秒殺されるという「K-1の黄昏」ばかりが際立つ。日菜太はこの捻じれた「K-1MAX」と言える2試合を行うことでそれを証明したかのように映った。
 また、K-1ライト級優勝者・大和哲也をなんと判定で下したという甲子園出身者・卜部功也の波乱も「メジャー」の捻じれ方がひどく、せっかくの新時代的な展開を生んだライト級物語がキック団体内の観客のみにしか伝わらず、「いきなりの王者敗退の大波乱!しかも倒したのは、甲子園が生みだした存在―」なんて、これぞK-1的だと思うんだがそんな凄いことが下部団体にて行われ、消費されるということの実りの薄さや痛々しさがある。

 大波乱というのを下部団体で実現されるということの意味は重層的に憂鬱だ。単なる王者やトップコンテンダーの敗退という波乱ではなくそれが「メジャー」のK-1が作ってきた価値の崩壊をも暗に象徴し、極端に例えると「魔裟斗VS佐藤嘉洋」がK-1の衰退によってキック団体で実現され、魔裟斗が崩れ落ちるのを眺めるようなものだというか。

 無論波乱は結果論であり、大和VS卜部も王者となった人間の初戦としての試合として組んだものと思うし、「大和、圧倒的勝利!」のイメージを待望されてのものだろうが、せめて次のMAXではこの波乱を無かったことにせず興行内、番組内に生かしてほしいと思う。
 
<<京太郎VSジェロム・レ・バンナ メジャーであること>>

 今年は格闘技関連で大相撲までヤバいという状況は伝統や権威性までも含めた日本格闘技の「メジャー」全方位的に揺らいでいるという凄まじい事態であり、世間的なレベルでの格闘技に関しての欲望がぶった切られる物事が連鎖しすぎている。
 格闘技というものはもはや特定のマニアだけが見続ける小演劇的なものでありさえすればいいのだろうか?地上波メジャーの効用というものが失われ始め、「スポーツはもうタダで観る時代じゃない。見えない世間よりも金を出す1万人のファンだ」という、代替としての「メガ・インディー」という構想が叫ばれ始めているくらいになっている。

 K-1が世間的に「メジャー」になるにあたっての、地上波との結び付き方なども含めて初期から形成されてきた90年代型のメジャーの在り方が、崩れてきているってのも事象としては「ネットメディアに屈しつつある旧来地上波・出版などのメジャーのメディア」みたいないささか矮小的な対立などにシフトして考えてもしんどいことになっているように思え、このあたりの大メディアの効力の低下による90年代型の「メジャー」の黄昏はなにも格闘技に限定されるものではなく、音楽にせよ出版にせよその構造を変えられないまま劣化していってしまう現象が多々見られる。
 
 「ゼロ年代は90年代と地続きな感がある」という気分はとりあえずそうしたメジャーの在り方が変わらなかったせいもあると考えているが、そういう90年代式の在り方が軒並み存在を危うくしてるってのが目に見えてわかるのが現在だとするとまあ面倒くさいことになっていると感じる。こうしたメディアのパワーバランスの変動によってそもそもの「大衆、国民性というものが分散してしまうようになった」みたいに論じることはメディアの構造変化のみの視点でしかなくイージーなものではあるが、90年代式のメジャーの形成にのっとり、ゼロ年代末までにそれを館長逮捕やモンスター路線など紆余曲折ありながらも守ってきたことがいよいよ崩れかけているって意味のほうが、いまのK-1では強い。




 中国資本導入にあたって今後のK-1の存在意義に変動があるのは必至で、主催者側のメジャーの再定義としての大会を望むとともに、今大会でもう一つ気になるのは存在意義の歪みかたの契機みたいになってしまう点も見られるように感じている。
 
 
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