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刃牙と見えないカマキリ・プロにならなかった神代ユウ・2000年を過ぎた後の格闘技漫画<前篇>

Category: もうひとつの格闘技史   Tags: 板垣恵介    川原正敏  格闘技漫画  想像力  
雨

 「最強を決める格闘技イベント、PRIDEの登場」によって相対的に弱体化を余儀なくされていったジャンルは、決してプロレスだけではなく、思うに疑似的な形で想像上の「最強」を表現しようとしたメディア全てに、直接的であれ、間接的であれ影響があったと思う。今回は格闘技漫画の代表「グラップラー刃牙」が何故ハイテンションで混乱しだしたか?の契機についての考察と、最後まで主人公がプロ格闘家にならなかった「ホーリーランド」に映る意味、そして連載中断からついに今年、再開された「修羅の門」の空白についての、「最強」の幻想を描く想像力に関しての変容の話。

 長くなりすぎるのでまずは<前篇>、「修羅の門」と「バキ」「餓狼伝」まで。



 「PRIDE男祭り」のこのオープニングを見て強烈に感じるのは、かつての格闘技漫画が空想上で描いていた「最強トーナメントで世界の一流が一堂に集う光景」という虚構の実現という光景の目まいのする思いだ。当時のDSEがコアに置いていただろう感情の一つに単なるいちイベントの演出以上に昔から様々な形で描かれてきた「様々な格闘家が一堂に集い最強を決める」ことの妄想の現実化がもたらしたものとは、以後の空想上にて「最強」「異種格闘」を描くことに関しての想像力や物語性の意味を変容させてしまう効果もあったと見ている。




 まだMMAというのが、今日のように新興競技としてのフォルム以前の、「ヴァーリトゥード」「異種格闘技戦」というなんでもありのルールによって未解明な「最強とは何か?」を実現する場を探っていく時期だったころ、現実のプロレス・格闘技界が様々な形で試行錯誤していくのと平行するように、特に80年代中期~90年代初頭発の格闘技漫画・ゲームがインスピレーションを発揮していたと思う。

修羅
 
 80年代に入ってすぐに行われたアントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムスによって膨らまされた「プロレスVS空手」の構図に加え、80年代中盤のUWF発足による「真剣勝負のプロレス・格闘技の実現への模索」に舵を切られた時期にインスパイアされた夢枕獏の「餓狼伝」の刊行はじめ、川原正敏「修羅の門」などの連載がスタートし、この時期は「空手団体が主催する異種格闘技戦」にて、他流派との決闘のみならず明らかにUWFの印象を投影しているプロレスラーはじめ様々な格闘家が競いあうという基本形なのだが、今振り返ってのポイントと自分が感じたのははこのころ(90年代に入る前くらい)の「餓狼伝」や「修羅の門」が描いてる異種格闘技大会というのは興行としてショー化されてるもんではなくて武道としての立会いの下で半ばアマチュア大会的に行われているってとこで、このあたりのインスピレーションの最大のモデルは様々な格闘技の参加が許された、極真空手のオープン・トーナメントなのだろうが、まだ格闘技のプロイベント化とか成立していく前の、具体的な想像力としてはそこが最大のものだったのだろう。

 まだこのころは「異種格闘技で最強を決めること」が本当にこの後にプロ格闘技イベントになるだなんて思いもしなかったのだと思うし、大山倍達による極真の「地上最強のカラテ」がもたらしたインスピレーションからは、「公式に異種格闘技戦が主催されるとしたら説得力が高いのは極真」だったようで、そのあたりのイズムを継承していたのが石井館長なのだとしたらいかにして後の「K-1」に結実したのかってのもわかる気がする。

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 そして本格的に格闘技イベントの開拓と整備による「プロ化」が現実化してくる、プロレス・格闘技史のパラダイムを変化させていく90年代初頭では現代につらなる作品が数多く生まれることになる。K-1・UFCなどを代表とするガチの格闘技の本格的なプロイベントの誕生と前後して、ゲーム方面ではカプコンからの大山倍達の「世界ケンカ旅」を原点としたアクションの完全な対戦格闘ゲーム化にシフトした「ストリートファイター2」や対抗としてSNKの、完全に夢枕獏の著作まんまの「餓狼伝説」などが生まれるなど、格闘技のインスピレーションがこうした形で結実することでゲーム史上に対戦格闘ゲームのブームを生むなど、こうして暗に強い影響を受けて他のメディアでも新ジャンルを生み出すシンクロニティがあった中の一つとして、格闘技漫画にて「グラップラー刃牙」の連載が1991年にスタートすることになる。

 近い時期にも「刃牙」と近似したコンセプトの猿渡哲也による「高校鉄拳伝タフ」も始まるなどいよいよ「プロ格闘技」という新ジャンルが実現に向けて動きだしているのに呼応した形の想像力で、この頃になると異種格闘技戦によって己の流派、ジャンルの雌雄を決する勝負ということからなんでもありのヴァーリトゥードの大会によって、もう流派もジャンルもなにもかもを越えた「人類最強」を決定付けるという欲望というか妄想の実現に想像力が加速していったと思う。(その中で骨法などの想像力の伽藍が生まれたりもしたが)
 「刃牙」が描きだす想像力の速度が時代と並走していたとベストの時期と思われ、「修羅の門」もこの90年代にていよいよ「ヴァーリトゥードで最強を決める」という章に入っていくこととなる。UFCによるグレイシー一族が提示した「最強」の形に対して日本がU系団体を代表に、大道塾の市原海樹がホイスに敗れ、UWFインターナショナルの安生洋二がグレイシーの道場破りに直接現地に向かい、ヒクソンに惨敗するなどの現実を経て、その想像力に対抗していこうとする中で、すべてが「真剣勝負の決闘の場としての格闘技のイベント」の実現が望まれる機運がそうして高まっていったのだと思う。
 その中で「地下格闘技にて世界の強豪が集まり人類最強を決めるトーナメント」という想像力はそうした現実の進行と合わせて、妄言か実現できるかが本当に微妙なラインに揺れていた。まだバキも人類と闘っていた頃だ。


 そうして迎えられた1997年の「高田延彦VSヒクソン・グレイシー」という、「日本人最強のプロレスラーとヴァーリトゥード最強の柔術家」による決闘を演出したイベントを嚆矢として、なんでもありでの「最強」を決める格闘技イベント「PRIDE・1」がいよいよここでスタートすることになる。

 この1997年のヒクソン戦から2000年の「桜庭和志VSホイス・グレイシー」による「UWF対グレイシーの決着」をPRIDEがメインとしていた期間と前後して、ついに貪欲に「最強」を描いてことの想像力に関しての綻びが生まれ始める。
 「修羅の門」はヴァーリトゥード編の最強の相手・ヒクソン・グレイシーをモデルにしたというレオン・グラシエーロとの決闘のその決着の在り方に関して読者からの強い反発を招き、川原氏のモチベーションが失われることで、現実にヒクソン・グレイシーとの闘いがビッグイベントにて実現する前年の1996年にて休載することとなる。
 このあたりの「連載の終了」ではなく「休載」という形となってることや、その時期としても本当にジャストで、振り返れば80年代型の空手主催による異種格闘技戦から、真逆の権威と歴史ある競技、ボクシングに移行し、そののち本当に 現実の格闘技界が目指していた「なんでもありのヴァーリトゥードで最強を決める」大会までを描いて、本当に日本にてその格闘技イベントが実現しかける直前での中断というのは、偶然だろうが意味深い、いわゆるシンクロニティを感じさせる出来事の一つでもあったように思う。

 そして「グラップラー刃牙」は「最強トーナメント」を1999年、新日本プロレスにて小川直也VS橋本真也の暴走が起こり、PRIDEにて桜庭がホイラーを撃破し、ジャイアント馬場が亡くなってしまうという、いよいよもって昭和からの歴史が一つ途切れようとしているかのような事例が相次いだ年に描き終え「格闘技と個人の最強」の一つを表現して、第一部として終結させ、もはや実現することのない「猪木VS馬場」の闘いを外伝として描いた後に再開された第2部からは、見事なまでに現実と過剰な想像力との乖離が顕著な展開となるのであった。 

   「最強トーナメント」の後の第2部、なんと世界各地の死刑囚がユングの提唱するシンクロニティによって脱獄して格闘家と闘うという、作品を通しての「荒唐無稽」に対してのツッコミと全く別種の脱力のある心理学のミスリードによって第2部が始まったあたりから、現実がPRIDEによって「最強」を決めようとする大会が生まれ、既存のK-1と関わっていくことで2002年に国立競技場で「Dynamite!」なんて本気でかつてからの夢と妄想と欲望の実現が行われ、バブルと称されるほどの増長を見せていくのに対して、第2部からの「バキ」の描きだす空想上の「最強」への想像力はバロック化(最強を描こうとする古典に忠実であろうとしながら逸脱し、いびつで奇妙に)してしまい、以後のゼロ年代の格闘技バブルとその終焉の中で、ついに行くところにまで行ってしまい「カマキリが人間の身長であの動きで襲いかかってくるとしたらどうやって闘うのか?」をイメージトレーニングで本気で行うという領域にまで逸脱するに至るのであった・・・・・
 いや80年代みたいな極真やら少林寺やらの修行の一環みたいな意味として、これも咀嚼しきれなくはないとは思うのだが、現実が想像力を実現してしまうことで追い越してしまい、何か荒唐無稽の想像力が、実は「最強」の幻想を生むために無理をしているように見えてしまう、というのも込みでキッチュさに拍車がかかってしまったってのが大きいように思う。 

 ガロウ


 しかし「バキ」がそうやってバロック化していくのに対して、同じ板垣恵介による、高田VSヒクソンの行われた「PRIDE・1」から1年後の1998年に連載開始された、夢枕獏の「餓狼伝」の漫画化 においてはこれが第2部以降の「バキ」と比較して異常なまでに想像力が安定しており、これは原作の基礎的な世界があの80年代の「プロレスVS空手」を元にした異種格闘技戦時代の世界観であることや、元々の原作がUWFに強くインスパイアされているのに対して、UWFを疑似格闘技として一切認めていない 板垣氏による漫画版ではそんな原作と比較してUWFをモデルとしたキャラが徹底的に叩きのめされたりと、夢枕氏のロマンチシズムに対しての過剰でドス黒い返答などが見どころで、あの時代のインスピレーションに関してのやり取りが原作・作画間で見てとれる。

 しかしPRIDE後に連載が始まった、1980年代の想像力のリプライズのような今作に対して思うのは、やはり「決闘」や「最強」を描くことに関しての想像力が荒唐無稽であればあるほどロマンチシズムを仮託できた黄金時代であったのが1997年前夜の時代であり、「餓狼伝」の質はそこにあるのだと思っている。かつての想像力が「PRIDE」からの格闘技バブルの現実によって実現されてしまったあとで、あらゆる荒唐無稽な想像力も相対的に弱体化を余議なくされるか、または弱体化や無効を自覚して、第2部からの「バキ」のようにさらに極端にしてバロック化してしまうかの反応に対して、「餓狼伝」が示唆したインスピレーションの黄金時代は一体いつだったのか?というのは興味深い。(作中に「この選手のネット人気も抜群」なんてシーンがあるのだが、間違いなく「餓狼伝」はインターネットのない世界に存在している。ちなみにこのネットに関しても「想像力の相対化による弱体」の一翼を担ってもいる面はある。)

 
 と、いうわけで「最強」を決める場の現実化に伴い、かつてからの荒唐無稽の過剰な想像力も相対化されることで弱体化したり強硬化したりしてしまったように映る。では格闘技バブル以後の格闘技漫画の描く想像力と物語とは?

次回後編、「ホーリーランド」を中心にした、「ゼロ年代の格闘技漫画」に続く。 
 
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