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ロペスとマルケスと、日本格闘技の一つのルーツとしてのラスベガス

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 WBO世界フェザー級タイトルマッチ・ネバダ州ラスベガス
<<「ファン・マヌエル・ロペスVSラファエル・マルケス」観戦記録>>

 90年代からゼロ年代初頭にかけて、古くはUインターをはじめK-1などがマイク・タイソンを招聘しリングに上げ、試合をさせようと躍起になっていた頃があった。ここのドグマにはやはり、さらに遡ってアントニオ猪木VSモハメド・アリに見られるように「世界最高の権威ある格闘技・ボクシングの頂点に立つ人間をどうあれリングに上げて倒すことによって、自分たちのやっている権威なきプロレス・格闘技の正統性・優位性を見せつける」ことにあるのだと見ている。日本格闘技史とボクシングの関わり方の原点の反応だろう。 
 そうしたことをはじめとするボクシングとの関わりが格闘技史に暗に与えた影響を、エキサイトマッチを見ていた中で彗星のように現れた極上の勝負の中に感じた。

▼▼BGM・DC PRG「MIRROR BALLS 」▼▼

 ラスベガスで行われた、完全に未見のブエルトルコの無敗のファイターロペスとメキシコ人マルケスのフェザー級タイトルマッチの試合は、一見して感じたのは前のエントリにも感じたようにTBS&FEGの作ってきたK-1MAXやHERO'sがモデルとしてきた原点を見たような感じで、これは山下達郎がモデルとしてきたアメリカン・ポップスを聴いた時とか、この前まで放映していた三木聡監督のTVドラマ「熱海の捜査官」やグラスホッパーマニファクチュアの「花と太陽と雨と」(この辺は完全に趣味で聞いたことのタイトルだろうが申し訳ない)がモデルにしていたデヴィット・リンチの「ツインピークス」を見た時のような、などなどのアメリカの模倣としての日本近代文化の在り方の流れを見取る感じに近かった。

 また、ラスベガスという米国ボクシングのメッカに、K-1が大会を開催することに執着していたことや魔裟斗も現役時にラスベガスでの試合を望んでいたことなどもまた、K-1が成立するに当たっての「立ち技最強を決める異種格闘技戦」以上の具体的なモデルとして先のマイク・タイソンへの執着なども含めてこの米国のボクシングの場を志向していたことには違いなく、かつてジェロムレバンナを巡ってドンキングと石井館長が駆け引きをしていたという逸話も込みで考えるとボクシングと関連したK-1という別の歴史としての側面も見える気がする。こうした米国ボクシングを一つのモデルとしたことがK-1の核の一つとなったことが、巡り巡って後のMAXやHero'sに影響を与えたのだろうか?なんて思った。

 それというのも、チャンピオンのロペスの佇まいの、山本KIDとの似通い方などを見るに、自分は魔裟斗やKIDのスター性の底にあるのは日本製のアメリカ人だからだと考えていた中で、魔裟斗などはK-1MAXの箱庭のなかで形成されたオスカー・デラホーヤみたいだと長らく思っていて、特に2007年ごろから現在までの魔裟斗の青年実業家のような雰囲気は、実際にゴールデン・プロモーションズという会社を立ち上げ現在プロモーターとして活躍するデラホーヤの雰囲気と異様に似ていたりという流れで、KIDはそうした日本製のアメリカ人として疑似的なラスベガスのHero'sを輝やかせたのだろうな、などと思った。ロペスはKIDにギルバート・アイブルの顔を混ぜ込んだような悪さを持った顔立ちをしていた。

 ボクシングにおけるラテンアメリカのブエルトリコとメキシコの対抗関係の中で数多くの名勝負が生まれたという。例によってウィキペディア調べなんだが「高いKO率を誇る二人の一戦!」と実況がアナウンスし、中継の向こうの観客たちがタイトルマッチの前にざわめき立つのが聴こえる。自分の心の中で先日のK-1MAXの魔裟斗・サワー・ブアカーオらのタレントを失った疑似的なラスベガスの喪失に伴う、記憶の寸断をこのK-1がモデルとしてきた光景が補完してくれているように思えた。
 長嶋自演乙がクエンティン・タランティーノやジョシュ・バーネット的にアニメやコスプレに寄りかかることをファイター像の大部分とするのではなくタレント性のアクセントとして消化できるセンスがあるならば。そしてそれを実践できていたのが須藤元気だった。須藤選手もまた、ジブリオタとかセーラームーンオタとかの部分を先のタランティーノみたいなマニアやオタクやナードのキツい感じでもすごく上手にデザインしてしまう選手で、ここでもまたボクシングとの関わり方って話に繋がるが、あの悪魔王子・ナジーム・ハメドを参考にしたファイトスタイル(KIDも影響を受けたらしい)なんかを導入するあたりもまたK-1のラスベガスボクシングへの指向の歴史って意味で見れば絶妙だったと思う。

 ロペスの青いトランクスとマルケスの真っ赤なトランクスは、一瞬どっちが挑戦者なのかわからなくなるような感覚を受け、それはロペスの王者であるにも関わらずの試合前のレフェリーのルール説明を聞く時の食ってかかるような仕草のギラ付き方なども含めてそう思った。ここにブエルトリコとメキシコが闘う際にかけられてきた気迫の歴史があるのか?と思うと同時に、山本KIDが村浜武洋と闘ったときのシーンがフラッシュバックしてくる。

ロイ

 近年のK-1から、モデルとしたアメリカの気配というのが消え失せつつある。日本MMA史がPRIDEによるプロレス・格闘技史全ての壮大な実現によって成立していくという内的な歴史を紡ぐ一方で、外的に世間に格闘技を広めようとしたK-1がメジャーになっていくに当たってアメリカ・ラスベガス興行をモデルにしていたことが、今日までのFEGの興行にうっすら存在していた疑似的なアメリカのボクシング興行の気配であったのが、こうも薄れてきているということは、やはりここで一つの区切りをつけるならこれがPUJI以降の世界が生んだK-1という事なのかもしれない。

 序盤のラウンドにロペスの強打によってマルケスがよろめく。テレビを主体としたショービズとしてのK-1がアメリカのボクシング興行を志向することでメジャーにしていくことを具体化する一方で、「真剣勝負での最強は何か?」の内的な歴史の実現に重きが置かれたPRIDE。見えマイク・タイソンまでもリングに上げようとしたこと。ビタリ・クリチコをK-1やMMAに引きずり込んで倒すことで正統性と優位性を示す、なんて時代ではほとんどなくなり、ジェームス・トニーをUFCが始末したりもするが、実際は興行上のギミックの他にMMAの州解禁を目指して具体的に動いており、ボクシングとの闘いというよりかは元関係者であるダナ・ホワイトの愛憎極まるバッドジョークなのだろう。
 このままロペスが押し切るのか?と思われた中で、マルケスの左によってロペスがよろめき、そこを一気に詰めていく。が、その中での打ちあいでロペスがマルケスの後頭部に打撃を与えたことでレフェリーが割って入り、注意を与える。WOWOWの解説陣が試合の流れを寸断するレフェリングについて苦言を呈する。

 ラウンドの開始の際にロペスがワセリンの塗布の量を咎められるシーンに、先のアイブルとKIDの混ざった顔の醸し出す悪さを見とったりもした。(ここで悪さを感じるのも日本の格闘技を見てきた人間ならではって感じだろうか?)このあたりから試合のテンションと強度が増してゆく。「ブエルトリコとメキシコの決闘」が歴史の中でいかにして形成されてきたのかはわからない。だがここから展開されていく猛然とした打ちあいを見て、「ボクシングでこれほど面白い試合があったのか」などと思ってしまった。

 そしてそれこそがこの前のK-1MAXから消え失せていた、モデルとしていたアメリカの気配だった。「打ちあいの展開」というのを単純に大味で興行を盛り上げるためののアクセントに過ぎないなんて格闘技ナード視点の意見あるだろう。自らの信じる競技的理想のフォルムが世間に浸透しない結果に対して宣伝が足りないとか視聴率の構造だとかについてのプロモーションに苦言を呈するのかもしれないが、しかし振り返ってみてほしい。そもそもの「打ちあい」という格闘技の典型的なスペクタクルが、競技化され、技術的に高度になっていくにつれ必然的にポイントゲームになりがちでスペクタクルが抑制される時代の中で、発生することのその背景を。その感情を。MAXから失われたものを。MAXの記憶を寸断してしまったものを。
特に格下のファイター同士ではなく王者レベルの人間による「打ちあい」の発生の中にこそ、両者の辿ってきた歴史や物語がスイングする瞬間であると言え、ことに格闘技が他のスポーツよりもそうした面がクローズアップされる要因にそうした面がどんなスポーツよりも拡大化されるから刺激的なのだと自分は思う。単純な打ちあいだけが見たいわけなんじゃない。打ちあいが発生する背景としての両者の物語や歴史がスイングする瞬間が見たいのだ。魔裟斗VS佐藤嘉洋のように。

   
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 ボクシングにおけるブエルトリコとメキシコの長きに渡る対立関係という歴史性や物語性の接触する瞬間として、ロペスとマルケスの恐るべき削りあいのような闘いがあり、その試合を見るだけでラテンアメリカのこの2つの国が争うことの意味や背景が理解できた。同時に日本のK-1MAXから消えたものがアメリカ・ラスベガス的なものだけではなく、「誰かと誰かが、今ここで闘うことの必然」という物語や歴史が消えたことに気付いたのだった。宣伝も視聴率も後付けのもので、物語や歴史を選手がリング上まで引っ張って具現化することで付いてくるものだろう。そしてそれが失われたと感じたから自分はK-1MAXに対して記憶喪失のような思いになったのだ。「コアファンが少ないから」との意見があるが、遡って「いかにして格闘技のファンになったのか?」というところにまで戻ってみてほしい。(って、グラスホッパーのゲームの謎ときで見始めた自分が言えたものでもないのだが・苦笑)格闘技を好きになったその瞬間には、少なからずの物語や歴史を生み出し、背負い、体現している存在がいたはずだと思うからだ。

 王者ロペスが巻き返していき、マルケスを打ちあいの中で削り続け、動きが鈍くなり始めるなか、遂に8R終了時のインターバルにて、マルケスの肩の負傷にてロペスのTKO勝利による防衛が告げられる。ロペスはその瞬間に歓喜のなかでマットに突っ伏した。それもまた自分がいつか見た光景に重なっていった。K-1のルーツを見たと共に、これまでのK-1MAXが疑似的な形とはいえ実現していたものがそこにあった。

 ブエルトリコとメキシコの決闘を制し、ボクシングの世界での30勝無敗のチャンピオンという恐るべき経歴にファン・マヌエル・ロペスが到達したことが告げられる中で興行が終わる。感動的であると同時にやけに哀しい余韻が残った。


 
 
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