オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


2011年初頭のウェブ線上の批評

Category: ウェブ線上の批評   Tags: スター  競技  煽り  時評  
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 今回は最近のウェブ上の記事を見た中で、興味深かった記事や、現在の日本格闘技界の状況を巡るネット上の世論の流れなどについて、スター競技煽り時評のセクションに分けて、記事を引用しての考察。(特に競技の記事に関しては必見の記事の引用が入ります。いやいやマジに。)



<<PE'Z - My Favorite Things >>


<<Section1・「スター」>>

OMASUKI FIGHT様より「UFCで判定決着急増中【それでも続く一人勝ち】」 



 オブザーバは、年を追うごとに判定決着が増加しており、いわゆる”退屈な試合”が増えていることが見て取れるが、他方でUFCのビジネスはどんどん成長しているとし、「ビジネスの成功要因は、試合の質によるのではなく、スターを作りだし、試合への期待感を高めることにあるのだ」と分析、試合の質が重要なのであれば、WECは今頃、ナンバー1団体になっていたはずだと論証している。

>勝つことが大事なのか、おもしろい試合が大事なのかという議論があるが、この記事を見る限り、MMAに金が落ちるかどうかは、そんなことが問題なのではなさそうである。思えば昨年のDREAMは、スターも作っていないし、試合を盛り上げることもしていない。いつも1週間前くらいにパパッとカードを発表しては、イベントを開催するだけのことであった。体制立て直しが可能なのであれば、今後はどうかしっかりとプロモーション活動をやって欲しいと思う。



 この海外のリサーチから読み取れるものは、逆説的に現在の日本で「好勝負を演じることこそが最良」とか、「抑え込んでの膠着を生むような選手はもう使うな」のような、スター性云々から世間や物語性の流れどうこうではなくあくまで「試合内容がグルーヴしたかどうか?」のみの、技術論や選手の背景も無視した「その場で盛り上がったか否か」のような論調になりがちで、しかもそれが観客だけではなく選手も、運営も共通認識としてしまっている、ということの、スターの勝利でも試合の技術論でも見ていないのではないか?という歪みに気付かされる。

 「団体のエースとなって世間に露出し、興行を背負う意思を見せる試合をし観客を引っ張る」ことと「観客をグルーヴさせるKO・一本を目指して好試合を演じる」ことがイコールで結ばれているとやはり錯覚しがちで、現在は後者の価値のみにコンセンサスが置かれているように見え、それゆえか、たとえば川尻達也がジョシュ・トムソンという難敵に勝ち、今年に流れを繋ぐ流れを生んだのに(もし負けでもして、トピックスが青木自演だけだったら正直やばすぎたと思う)、KOや一本を決め切れなかったことで、勝者が肩を落としているという不思議な光景が起こるのはそこにあるように思う。

 もし川尻選手が前者のスタンスを意識していたなら、判定になろうがしっかりと胸を張ってかまえ、マイクで「来年、僕が北米に逆襲します!」くらい言っていたならば、間抜けの「川尻の試合はつまらなかった、ダメ」とかの批判は少なくなったのかな、なんて思う。ただ自分にしても、「KO・一本取れなかったせいで、観客をグルーブ出来なくて、観客に沈んだ姿を見せて、一本取れなかったことを後でボヤくのは謙虚とは違う!復帰戦でトムソンに勝つなんてどんだけプレッシャーがかかって凄いことやったのかはこっちはわかっているし知っているから胸を張ってくれ!」と心の中の松岡修造氏が吼えるのだった。


 コンテンツのフックとなる部分としてやはりスターの存在が、興行である以上無くてはならず、広いスパンで興行を見た場合「技術論」「好勝負」「膠着」と言ったものまで含めた競技的な側面の評価は二次的なものと言わざるを得ない。その意味で、日本の現状からすれば限りなく競技に近いように見えるが、基本興行であるUFCのアンデウソン・シウバが今度のベウフォートに勝った場合、岡見勇信がいよいよタイトルか?と思いきやGSPとのスター同士のパウンド・フォー・パウンド最強決定戦が噂されるというし、また先送りになるのかと残念に思う一方で、向こうの理屈からすればPPVやゲート収入が見込める価値が岡見には薄いとみなしている、ということも分かる気がしてしまう。

 だがしかし、競技としてのコンセンサス(もしくは、イベントのコンセプトの理解)を打ち立てていかないことにはスターの成立もしようも無く、このセクションは「だから競技はダメなんだ」みたいな文脈ではないことを付け加えてておきたい。次のセクションには、その「競技」に関して真摯に語られた必見中の必見の記事から入る。

<<Section2・「競技」>>

電脳如是我聞 長尾メモ8weblog様より「連載・ジャッジを考えると競技がみえる」



 現実に興行に関わっておられる、長尾氏だからこその非常に具体的なジャッジの問題と「競技」の成立に関して明確に言及されたこの連載は、リンク先の記事に発表の日時が記載されている通り最初に書かれた時期はまだPRIDE崩壊前で、桜庭がHERO'sに移籍し、亀田興毅VSランダエダの問題があった、という2006年のもので、当時女子総合格闘技団体「スマックガール」の運営に関わっていた実体験込みの説得力も大きく、連載当時の亀田問題に関連してのボクシングのジャッジに関しての言及も行われている点も興味深い。

 当ブログ含め「競技」の言及に関して、どうしても語る人間の趣味嗜好に寄った私見になりがちだし、紙メディアでは関係各所の問題もあるのか分からないが語られにくい、というか、違和感のある判定の試合の際に取り上げられるくらいなのに対して、現在の連載はジャッジを主体にして言及しており、その次のランキングの設定や階級の設定に関してなどの環境の整備の部分はどう影響してくるのだろうか?という部分も気になるが、この一連の連載で書かれていることが、ある格闘技のイベントの「競技性」を判定する場合の一つの測定器として優れている。繰り返すが、「これがネットのみに発表されている」「これがPRIDE崩壊前の2006年のもの」というのも込みで必見の記事だろう。

「ジャッジを考える9」 2006.08.26

1)判定なし(ドローとなる)
2)全体での判定
3)ラウンド毎のポイント制
4)ある有効な状態にポイントが与えられるポイント制

前回で、4)のポイント制が、競技化の最も進んだ形であることの、サワリを書きました。
では、何故、ボクシングや総合格闘技はそうしないのかという話に入ります(*1)。

強引に結論から書けば、4)の形態を取ることで、その競技の元々の本質的な概念が失われるからです。

抽象的過ぎて、判りにくい表現ですね。では、これならどうでしょう。4)の形態を取ると、点取りゲーム化が始まるからです。

本来、ゴールである1本を取ることが目的なのが、柔術です。が、1本を取る為に、1本を取る過程のある状態を抽出し、そこにポイントを与えるようにしたことで、1本ではなく、ポイントを取ることが目的となってくるのです。

これは、アマボクシングの例を考えてみると、もう少し判りやすくなると思います。

アマボクシングのジャッジ方法は、オリンピックで見られる、電光掲示板にポイントが加算されているアレです(を見たことある人が、かなり少ないような気もして、かなり不安ですが)。これは、5人のジャッジのうち、3人が1秒以内にボタンを押せば、それが1ポイントとして加算され、試合全体でポイントが多い方が勝ちとなります。

(※中略)

何が言いたいかと言えば、要は、アマボクシングの採点法の場合、適切なフォームで、適切な箇所(拳のうち、ナックルの部分)が、相手の身体のある部分に当たれば、相手のダメージの如何に関わらず、1点となります。

一応、KO勝ちという決着は存在しますし、ダウンも取りますから(スタンディングダウンはやたら早く取りますし、3回ダウンでRSC(*3)で終了となりますが、ダウン自体にはポイントは与えられません)、一発狙いをしたっていいんです。が、大概の選手はそうしない。ヘッドギアもしてますから、プロに比較したらダウンは狙い難い。勝つ為には、確実にポイントを取ることを優先する選手が、圧倒的多数になります。

ボクシングとは、素手ゴロ1番、己の拳ひとつで誇りをかけて殴り合い、どちらかが倒れるまで続けるのが、本来の姿だ(*4)。

かなり強引なイメージですが、ボクシングとは、出発点はそういうモノであった筈です。が、アマチュアボクシングの判定方法を取ると、そうではなくなります。KOを狙うことよりも、確実にポイントを取ることの法が勝利への近道なのですから。つまり、競技化を推し進めると、ボクシングの本質から離れていくということです。



「ジャッジを考える10」 2006.08.31

プロボクシングとアマボクシング、どっちが面白いですか?

言葉の定義から細かくやると書いて、実際、細かくやってる一連の文章の中で、突然、恣意的な「面白さ」を問うことは、ある意味反則であることは、自分でもわかっています。

けれど、あえて。プロボクシングとアマボクシング、どっちが面白いですか?

「アマ見たことないから、わかんないよ」と言う声が出ることは十分予想されますが、それはちょっと別にします。

自分は、双方とも、ジャッジやら何やらちゃんと理解して見れば、どちらも面白い。そう思います。

けれど、やはり多くの人は、プロボクシングの方が面白いと答えるのではないでしょうか。そんなことはない、アマの方が面白いと言われると、かくかくしかじかで、だからプロが面白いと明確に答えられないところが厳しい気はするんですが。

それでも、やはり、プロの方が面白いという声の方が、圧倒的多数になると思うんです。

では、組技系の競技ではどうでしょうか? 

(中略)

つまり、ボクシングに代表される打撃系の競技に比較して、各種グラップリング・組技系の競技は、適度な数量化・抽象化がしやすく、その結果、興行性を失わずに競技化を進めることが可能ということです。

加えて、各種グラップリングにおいては、まさに点取りゲーム化しているところを、その「ゲーム性」(この言葉はあまり使いたくないのですが)ゆえに、興行として面白く見せうる可能性を秘めているとも言えます(*3)。


今回の結論は、その競技の性格により、同じ数量化・抽象化を行うにしても、結果として見られる現象は異なるということ。打撃系は、数量化しにくく、そこをあえてすると、過度に抽象化せざるを得なくなり、組技系は、それに比較すれば、穏やかに抽象化できるということです。

(引用、一部省略あり)



 
 まだ連載途中の部分であるが、このシリーズで最重要だと自分が思ったのは、長い引用になったが「打撃格闘技の判定と組み技格闘技の判定」の部分であり、ここにプロとアマ、ひるがえって格闘技のプロ興行としてのボクシング・キックなどの打撃格闘技と、競技によっては柔道・レスリングなどオリンピックにも適応される組み技格闘技の出自と歴史の差が見てとれ興味深いものがある。(趣旨がずれるかもしれないが、いかにMMA以前の「組み技の、真剣勝負の競技でのプロ化」が難しく、プロレスが誕生しああした形になったのか?の一つの謎ときでも見れる。)

 連載はいよいよ、この打撃と組み技が入り混じり、客観的な判断が複雑なMMAの判定について、アマチュア修斗を軸に言及されていくようだ。

 現在のMMAはたびたび書いているように異種格闘技戦の場やヴァーリトゥードのバイオレンスが期待される場というよりも、新興のいち競技として捉えなおすべきだという時期に、良くも悪くもある。そういう意味でもこの連載の論旨を見ていくことで、その「競技としてのMMA」というものを構造的に紐解くことによって、打撃と組み技の視点が混ざりあうことが起きている、ということの他格闘技と比較しての意味深さも見出せる。村松友視氏の言葉で言えば「ジャンルの鬼っ子」ぶりが競技構造レベルでわかってくるというか。

 しばらくは何かある度にこの連載は読み返していこうと思う。

<<Section3・「煽り」>>

 さて、「競技」や「技術」というのは、どうしても興行面と相いれない側面が出てきてしまうというのは、先の長尾氏のジャッジ論からもうかがい知れるが、メジャー格闘技興行が煽りのフックとするのは選手のイメージであったり苦しい出生や生活であったり、なにも無ければ「家族のために」あたりがいつも出て来て、技術に関してはあくまで選手のMMA前のバックグラウンドの競技の紹介程度で終わってしまうことが、さすがに最近のMMAの流れから行くと、PRIDE時代ではない現在では行き詰っているように見える。

 「技術」というのは興行性に反していて、そこを掘り下げてみて、ドラマは無いのだろうか?紙のプロレスから「PRIDEはもう忘れろ!新時代格闘技のミカタ 」という本が出され、そのタイトルまでの姿勢は賛同するのだが、実際の興行やメディアも煽りのフックとする部分は変わらないし、技術を語れる側はその分析や解説のみで独立してしまっていて、その技術を遂行する精神状態やバイオグラフィーに言及している例ってのはあまり見ない。

 そんなことを思っている中で、本当の意味でのPRIDE後の新時代の見方として、ちゃんとバックグラウンドも込みの技術も掘り下げての、物語性の「煽り」とはこうなるのではないか?とこの記事から思った。

 別冊・プロレス昭和異人伝様より
「コントロールする世界に目覚めた宮田和幸が開けたパンドラの箱」


宮田和幸は、現在、MMAで活躍するレスリング出身選手の中で、唯一の少年レスリング出身選手である。

中学時代から、全中のタイトルを奪ることを義務づけられた男は、レスリングの技術が、まるで歩く、かがむ、座る、そういった日常生活動作に等しく自然に出るほど、レスリングの反復動作を義務づけられて来た。

印象的であったのは、初めての、そして唯一の五輪出場時である。

一世一代の晴れ舞台に挑んだ宮田は髪の毛を染めた。

しかし、間違っても、冬季五輪を騒がしたやんちゃ選手など許されはしない、レスリング界の厳しい躾に、髪の色を元に戻した。

キューバとの対戦があった。

当時、アメリカやロシアを凌駕する勢いのあった、キューバ選手を、マットに自らの手をタッチするタイミングで放つ両足タックルで吹っ飛ばした。

宮田の潜在能力とは、実は、それほど恐ろしいのである。

(中略)

デビュー以来のMMAでの苦戦を経て、宮田は、かつて、どのレスラーも開かなかったパンドラの箱を開けた。

宮田の快進撃。

それは宮田がレスリングに復帰した時期と一致する。

レスリングのルールとは、実は、原始ほ乳類の雌雄を決する闘いをモチーフにしている。

相手に腹を見せさせる。

あるいは相手にマウンティングする。

前者は知られていても、後者は知られていない。

タックルで相手を転倒する事に、飽きた、宮田は、後者の方法で、相手を圧倒し出した。

相手を転倒するより先に、ゴービーハインド(背後を支配する)レスリングの原点に戻った宮田は、恐ろしいほど、簡単に、相手の背後を支配し出した。

宮田に背後を支配された対戦相手は、自分の意志とは関係なく、自分の肉体を動かされ続ける。

それこそ、レスリングのコントロール力そのものである。



 現実に競技者であり、レスリング道場も主宰されている方の実体験に基づく宮田選手への評を、この「煽り」というものを考える題材に取り上げるのはいささか失礼にあたってしまうかもしれないが、ここで語られている、2010年に確実に躍進したファイターの一人である宮田選手の活躍の背景に、自らのベースであるレスリングに大きく回帰したことにある、ということはとてもドラマティックなことだと思う。

 技術の向上の中で、どうしてもエキサイティングなグルーヴを生む試合というのは生まれにくくなってしまう。だがしかし、そこでも各選手のコンテクストを読んで実際の試合で実行される技術から逆算して掘り下げていっても、そこにドラマツルギーがあると思う。明確な「スター」を生むために、その「競技」を行う選手の技術習得の背景を読み取り、そこからドラマを探して「煽る」ことで目的に近付けるはずだと感じた。高谷選手の「不良で家族に迷惑をかけていた」という出自と、ビビアーノ選手の「ブラジル貧民街出身だった」という出自の煽りだけでは「じゃあ格闘技というのはそういう出自の負の面を取り払って昇華するためだけのものなの???」って違和感が残るし、高谷選手の技術の中に、ビビアーノの技術の中に、掘り下げればドラマがあると思うし、そこも込みで見ていかないと本当のスター創生に繋がりにくいのでは?なんて思う。

 MMAというジャンルが急速度で進化する以上、語る側が格闘技バブル時代と同じ視点でいけるわけがないな、と思わざるを得ない。当ブログは技術・競技論よりもコンテクストを読み解いての見立てメインだったが、さすがにもうこれからの時代それだけでは何も見えてこないな、と思った。

 かったるいネット上の格ヲタ世論の空気を読んだつもりになった煽りの時代はいつ終わるのだろう、と石井VSバンナの煽りを見て思い、そしてそれに乗せられてバンナが好きでもないくせにバンナが石井にパウンド打つ時にオーイオーイ言ってた人間が自身の恥に気付くのはいつのことになるのだろうか。「煽りじゃなくて空気読んでるだけ」はなんとかせえや、と思うのだった。

<<Section4・「時評」>>

 現在のMMAの背景として、「日本と米国との関わり方」が今後のメインストリームになってくると思ってるが、現実に流れてくるニュースやウェブ線上の世論などを見ているとFEGの危機問題とかそんなんばかりなので、さすがにもうリアルタイムの時評はどうでもいいや、自分は自分なりの視点で見てくわ、と思った。

武力まがいのオレンジ様の最終回より

私が戦うべき相手は仲間である格闘技ではない。
他のスポーツだ、他ジャンルだ、世間だ。
それなのに、同じ格闘技が格闘技を潰そうと攻撃してくる。
今、格闘技、そんな時季なのか?

バカバカしくなってしまったのだ。
格闘技のために戦うことが。
敵と戦わず、味方と戦うことがどれだけ無意味なことか。
蹴球や野球から攻撃を加えられるのなら受け止められる。
しかし、身内(格闘技)が悪意を持って本気で叩き潰そうとしてくる行為、
それも犯罪行為を持って仕掛けてくることに、
恐怖というよりは情けない想いで一杯になってしまったのだ。
脳をよぎるのはキックボクシングである。
クダラナイ身内同士の争い、対象を外に向けずに内ゲバを繰り返す情けない競技。
彼らの存在こそが腐敗しきった格闘技界の象徴である。
その薄汚れた体質を強要され、改めて実感したのだ。
ああ、これだ。これだから格闘技は世間に認められないのだと……。
格闘技連中は身内同士の抗争が大好きな種族。
一生メジャー競技になんかなれやしないだろう。

当ブログを立ち上げてから一環してK-1(格闘技)の危機感を煽って来た。
それが皮肉にも現実になろうとしている。
「にわか」「素人」「ミーハー」と呼ばれるファンを排除しようとする
コアと呼ばれる一部のファン、関係者、そして選手達。
彼らこそが格闘技の癌であり、最も憎むべき存在。
そんな憎むべき存在達は、冬の時代の怖さを身を以て思い知ることだろう。



 今後このブログは5年後の未来を見越し、それに繋がるものを探り、5年前の過去から歪んでいった部分を探るようにしようと、「武力まがいのオレンジ」様の最終回を読んで心に誓った。この最終回のタイトルが「アイズ・ワイド・シャット」だったら「時計仕掛けのオレンジ」をもじってたスタンリー・キューブリック流れで最高なのにな、とも思った。
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テーマ : 格闘技    ジャンル : スポーツ

Comments

プロレスの誕生は、ハッケンシュミット対フランク・ゴッチあたり、つまり二十世紀の初頭からという説が未だ半ば常識として語れられているけれど、実は、パンクラチオンの昔からプロレスはプロレスであったという説もあって。自分は実はそっちを支持しています。以下の話は、それを前提として。

グローブの発明なしには、ボクシングの競技化は不可能だったように、OFGの発明なしには、総合は競技として存在しなかったわけで。興行は原初からあった。けれど、競技ってのは二十世紀の発明で。加えて、二十世紀の末期になってプロとアマの境の矛盾が、主に資本主義的側面から問題になって、スペクテータースポーツの定義が必要になったと。

だから、二十一世紀は、真のスペクテータースポーツを発明しなくてはいけないと思います。恐らく現状で、世界的に上手くスペクテータースポーツとして成立しているのはサッカーくらいで。そのサッカーがどの位の競技人口を持っているかを考えたら、やはりスペクテータースポーツの前提となるのは、競技化である筈だと。
Re: 長尾メモ8様
 スペクテイター・スポーツ。メモ8さんが書かれている連載の、格闘技と競技というテーマのさらに深層に潜っていくと、他の野球・サッカーなどのショー・スポーツと違い、そのスペクタクルを生む部分がどうしても、連載で言及されていますが「素手ゴロ一番幻想」に関わってくるゆえに、他のスポーツが厳密にルールを設定していって客観的にも正統に(見える)ようにしていきながら、興行としても持たせていける一方で、格闘技の場合、厳密なルール化によって、プロ興行としてのスペクタクルが失われかねない、という矛盾をいかに止揚するのか、という局面と対応せざるを得ない、という問題もある一方で、興行として存続し、競技としての前提を作る上でいかに選手層を拡大していくのかという問題もありますが、稚拙かつありきたりな意見で恐縮ですが、それらを(一時的にかもわからないですが)解消する手段として、やはりスターを生み出し、看板を作ることが大きいという結論に戻ると考えます。

 無論、「この時代にスターが成立するか?」の社会的な構造や、「スターをプロテクトするあまり、興行の競技面での正統性が問われる(K-1MAXの魔裟斗ですね)」などが立ちはだかりますが、逆になんで「スター」を生む、という抜群の解決策が軽視されるのか?という側面に戻るのですが、しかしそれが正統に見えないせいで、だからこそ今日の競技化の議論がファン・メディア・選手問わず出ているのかな、とも思います。

 21世紀型のスペクテイター・スポーツとしての格闘技を考察していくと、21世紀型のスターとは何か?ということにも繋がってくるだろうと考えます。
貧弱な経験談からの意見としては、競技というより、真剣勝負においては、狙ってスターは作れないと思います。いや勿論不可能ではないと思いますし、魔裟斗は、数少ない成功例だとも思いますけど、あれは奇跡に近いと思いますし、だからこそ、最後のモダンとして語られるべき存在かと思います。まだ自前の興行をやっていた頃の魔裟斗の試合を、ニコニコしながら観ていた石井館長を会場で目撃しているからこそ、余計、そう思います。

既に下書き終えてるあの連載の続き(現時点での書き下ろしになります)で触れますが、浅尾美和は、ビーチバレーというジャンルを引っ張り上げることが出来たんでしょうか? 自分は出来てないと思います。ああいう短期的なタームでみた投資もある局面では必要かと思いますし、余力があるなら、どんどんやるべきかとも思いますが、プラオリティを最高にするのも如何がなもんかと。

まあ、現状の総合の状況に即していえば、単に余力がないというのが一番かと思いますし、そこそこ作ろうとしているものの、投資が少な過ぎて、失敗している例のみ散見できるとも言えます。
Re: メモ8様
>浅尾美和は、ビーチバレーというジャンルを引っ張り上げることが出来たんでしょうか?

 ここは、この問題のかなりネックな部分を表してますね。現状でネームバリューのある人間の存在によって業界全体がどれだけ引き上げられたか?スターとして仕掛け、祀り上げることでの費用対効果は得られているのか?などの近年の効果に関しては、確かに格闘技に限らず疑問のある部分ですね。

 先のコメントでの「スターを生むことでの問題の解消」は、あれから簡単に考えたのですが、今はネームバリューと実際の競技力というのはどれだけ乖離しているのか?などの疑問もありますし、元々の競技の権威や信頼を上昇させる意味でタレント性のある人間でありながら同時に世界大会で優勝するなどの実績を挙げること、という、タレント性だけの話ではなかったのですが、しかしこれはGSPクラスの実績を求めるというものすごくハードルの高い希望であって、それをやるには期間とプランが必要でやはり現実的ではないかもしれません。

 個人的にはマッハ・ルミナ中心の修斗ブームがバランスが取れていたのだろうか、なんて思っています。しかし「ブーム」であって、なぜ途切れたのだろうか、とも思いますが。

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EAbase887

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