オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


相撲が揺らぐと日本が本当にヤバい/日本格闘技の前提

Category: プロ格闘技   Tags: 大相撲  見立て  日本の格闘技興行  
ガボール


 しかるべきときにゆっくり、日本においてのあらゆるプロ格闘技の源流にある相撲を軸にして、自分が日本式の格闘技を見る視点として「見立て」という言葉を使っているが、ちょっと定義が分かりにくそうなので一度、自分でも見直す意味も込めて解説してみようと思っていたが、現実の日本格闘技興行が混迷を極める一方で、なんと、ついにというか大相撲での力士の八百長が存在したのを証拠付きで世間に公にされるという事態が発生した。

 この事態を見て、日本格闘技の凋落というのは、単に凪である時期とかそんなもんじゃなく、いよいよ日本人にとっての、格闘技を捉えることにに当たっての前提自体が崩壊していくのではないか、と直感的に思った。

 こんなタイミングになったが、とりあえず公になっている情報から八百長発生の背景の考察と並行して、相撲を軸として日本格闘技を見る前提の精神の考察。自分の個人的な「見立て」だと、すべてのプロ格闘技の底にある相撲までが崩れかけることの意味は、根底から何かが変化しかねないものとさえ思っている。

 最初に自分の希望を言えば、もう春場所の中止も発表され、岐路に立たされているが、ここは踏ん張って残ってほしいと願っている。


<<noise ambient >>


▼▼内幕を守りきれず露呈したぬるさ▼▼

 「国技」「伝統」と言われながらクローズドにされ、どこか世間と離れてる面のあった相撲界の、新弟子の暴行死の事件を皮切りに、野球賭博の発覚など近年の不祥事が明るみになっていくようになったのは、やはり内部で完結している文化だったが死者が出て、しかも真相や責任を隠蔽しようとしていたなどというきな臭い事態が発生し、そしてそれが公になって以降、これまで相撲の内部暴露にあたる事態の発覚に関して、「大相撲に関してはうかつなことが書けない」とまで言われていたのに、例の野球賭博の発覚が週刊誌にリークされ、それが発端となり、警察の捜査が入ることで公になってしまうことで琴光喜が解雇されてしまったことも記憶に新しい。

 その賭博事件の捜査がさらなる事態を、ついに公のものにしてしまった。それがこの機密中の機密というか、「言わぬが花」とされていたものと思われる、「メールによるやりとりでの、八百長の発覚」という、これまでの大相撲で幾度も言及され、元力士から証言されたりしてきたのだが、それでも鎮火させてこれたのだが、今回のように証拠付きでの発覚によって、もはやこれまでのように問題が発覚した主な人間を切ることによって事態を収拾させるなどの手段は取れず、大相撲の在り方自体が問われる事態にまで接触してしまったことで、春場所の中止にまで発展してしまった。

 


 内部で完結させ、暴露や調査をこれまで拒んでいたはずの大相撲が、野球賭博とその背景にある裏社会との関連を捜査される中で、ここまで公にされてしまい、遂に「八百長の存在」にまで来てしまった、ということは、稚拙な感想で恐縮だが大相撲の(いろんな意味での)権力の失墜であって、さらに飛躍して考えると、その権力の失墜が相撲の構造を問う所にまでにまで来てしまっている、ということの意味の大きさにある。

 漠然と、この事態に関しての様々な言説を見ていると、新弟子のリンチや賭博による不祥事と別に、八百長が公にされることで相撲が崩れかねないのでは、ということに関して、八百長を糾弾するにせよ擁護するにせよその言葉の底にあるのは、なにか前提が壊れることへの戸惑いがあるように映った。これは自分の感情がそこに寄っているのもあるが。

 しかし現実にこうして公にされた八百長の発生の構図からは、表層をなぞって確認するくらいだと内幕のぬるさばかりを感じる。あまりに乱暴な感想だけどニュースの初見での印象は「十両に多いってのは生活かかってるから?実力的に上がる目が無いから互助会のようになってんの?だから外国人ばかりが上にいってしまうの?」などと思った。

 とはいえ、ほとんどあらゆる内幕は公にされてしまう時点で、これまで外に漏らさないようにしてこようとした緊張が解けてしまっているわけで、「ぬるい」という感想はそこに来ている面もあると自分で思っているが、何より重大なのは繰り返すが「世間に公にされることにまで至ってしまった」ことに尽きる。八百長自体の是非の問題というよりも、相撲協会自体が社会的にここまでの事態になることを許してしまったところにあるように感じている。

しかし、散々言われていることだけど、やくみつるや内舘牧子のような外部の人間の介入ぶりや、ニュースで公開された八百長の構造に、十両以下の人間がその座から落ちないようにしがみついているということより、これまでなら無かったらしい番付の違う力士同士が交流していることがあったことなどから察せられる、緩まりかたの果てに八百長発覚にまで行きついた、という、失笑さえ起こしかねないゆるさがばかりが印象に残る。



▼▼日本格闘技の前提、その崩壊の意味としての八百長問題▼▼
 

 「八百長があるから面白いんだ」とか、「興行だから八百長を仕込まないとあんな風に続かない」とか、八百長の是非を巡っての擁護も糾弾も正直どうでもいい。自分がこの問題でキツいのは、近年の日本格闘技界の失墜という現象の中が、ついに相撲にまで来た、ということが大きい。

 これまでのプロレスからK-1、PRIDEまでに連なる日本格闘技の、漠然とした「最強」だとか「世界最高の舞台」だとかの場を、FIFAみたいな統一の組織によって競技の正統を保証してのものでなしに生み出してきたが、時代の中でその「最強は何か?」とかそうした見立てが、ものすごく単純に乱暴に格闘技史を振り返って見た場合プロレスに対してのガチとしての格闘技、みたいな現実によってどんどん潰されていった歴史とも見え、さらに推し進めると「何が正当(ガチンコ、真実、きれい、安心する)で、何が不当(八百長、事実、汚い、不安で吐き気が)なのか」という見方の変化の歴史のようにも見え、その意識のバランスの傾き方がここまで来たか、という意味で、今回の相撲八百長問題から自分がダメージを受けた部分はそこだった。

 やはり「神事であり、興行であり、スポーツであり、文化である」相撲にこそ、日本の格闘技を見る視点の全てが集約されていると思うし、日本のあらゆる格闘技興行にはその歴史の底に多かれ少なかれ相撲の影響があると考えているのだが、同時に格闘技興行の歴史を「最強とは何か?」のような純粋なテーマを設定する一方で、「何が真実で、ガチンコで、綺麗なものか」の意識の変動の一部の歴史として見ても見とれる、と考えている。

 格闘技を見る際、時代や意味の変動をシャープに示したものとして見るか、それとも既に完成した競技でありスポーツとして見るのか、あるいはその中間として見るのかによって、語り口も違ってくるのだと思う。そして自分が「見立て」とか言ってるのは、完全に前者の見方のことであり、格闘技が他のあらゆるジャンルより遥かにそうした時代や意味の変化を凝縮してしまうと思うから、そうした見方で捉えている。

 そういう意味で、今現在の「何が正当で、何が不当なのか?」のこの意味の変動の歴史として日本の格闘技の現在を見ていたら、遂に日本格闘技の意識の根本たる相撲が問われていることのヤバさ、というのは、現在に日本においての何が正当で何が不当なのかの境界が捻じれ切っている現象のように見えていて、2010年代というのは「何が正当で何が不当か」を決めることでなくそうした捻じれといかに闘っていくのか?ということなのだろうか?とさえ思った。




 もう一度書くけど、本当に相撲はこの問題を解決してもらい、続いてほしい、と願っている。この問題を具体案でなく現象として解釈してしまうこと自体がすでに「不当」なことなのかも知れないし、「願っている」なんてことしか言えないのが歯がゆいが、この問題を仮に凌いだのちの、「八百長は無いと思われる」相撲が開催できたときの注目度というのは非常に大きいと思われるし、それが殺伐としたものとなるのかの興味というのは誰もが持ってると思う。

 あまりにもでかいスキャンダルで、ここで潰れた場合はあまりにも悲惨だが、乗り越えた後の相撲がどうなるのかの興味は大きい。
 
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テーマ : 格闘技    ジャンル : スポーツ

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