オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


ボクシングは映画にて焼きつく。ではシネマスクリーンの中のプロレスは?

Category: プロレスの生む物語   Tags: プロレス  ボクシング  映画    
ワーナー


 アメリカのボクシングにおいては、フィクション・伝記・ドキュメントに関わらず優れた映画が発表されている。最近発表された「ザ・ファイター」がアカデミー賞に選ばれたことも記憶に新しい。

 しかし、プロレスのように、競技としても題材としても、一種の矛盾が濃厚に存在しているこのジャンルに関しては先のアメリカボクシング映画みたいに映画作品としてまとめ上げられるような題材になる人物や事象というのは希少だし、またフィクションで取り扱うにも単なる感動を引き出す題材としても、ボクシングのように感情移入がたやすいものでもなく、興行的にも作品的にも成功し完成されている作品というのは難しい。これは様々な矛盾を抱えた題材であるゆえに非常に切り口を捉えられるセンスが問われるからと思う。

 というわけで今回、映画の題材としてのボクシングプロレスという視点からの、プロレスと格闘技の差についての考察です。



 プロレスと格闘技、エンターテインメントとスポーツの差に関して、映画として生える題材かそうでないか?という視点から違いを考えると、前者は最初からスポーツというものをデフォルメし、興行としてのストーリーラインを設定しているものであり、映画というフィルターを通してその選手や時代を背景によって生まれる名試合などを再構成して物語化しエンタメ化するなどの過程がそぐわず、どちらかと言えばバランスを欠いていて作りにくい題材だろう。対して後者の格闘技・スポーツの場合、冒頭に上げたボクシングを例にすると全て試合と選手の実績、そして競技の歴史と実績が先にあり、映画はその実績や人生、その結実としての試合を観客に物語の形にデフォルメして見せることで映画として成り立たせている、という違いがあるとも思う(まあかなり穴のある分け方だけど)。


 簡単に「プロレス映画」と検索しても引っ掛かるのは「レスリング・ウィズ・シャドウズ」や「ビヨンド・ザ・マット」という、アメリカンプロレス業界の内幕を描いた有名なドキュメントが主で、題材となっているレスリングをビジネスコンテンツとして完全に割りきっているWWEなどは、そういう意味で非常にはっきりしている。

 プロレスというジャンルの持っているグレーゾーンに関して深入りせず、単純にスポーツとしての感動を忠実に描くみたいなスタイルでドラマにしている「ナチョ・リブレ 覆面の神様」や「ガチ★ボーイ」などはジャケやポスターの宣伝の気配など何か巧みにこちらを引きよせない感じになっているが内容は明るく楽しいプロレスの世界を忠実に描いており、佳作は多いとは思う。
 しかし、やはり元々がスポーツ・格闘技をデフォルメしたコンテンツであるプロレスをさらに忠実に映画にするという形でデフォルメしようとすればするほど、「実際の試合や興行観に行きゃいいじゃん」のジレンマがボクシングはじめ他スポーツの映画の数倍はあると思われる。
(※が、佐藤隆太でそろそろダルビッシュじゃなくなるサエコでフジテレビ製作映画でとマニアほど萎えるだろう「ガチ★ボーイ」だけど、これ映画評論家とかあんま言及してないと思うんだが、実質、障害者プロレスの映画であって、そういう意味ではリンク先にあるような障害者プロレスを見取る感動なんかが描かれたものともいえ、ドキュメンタリー以外で大きく取り扱われることのないこの題材、ドラマのフックとして使ってるだけという批判も可能だけど、認識一周させて一見の価値ありというか。役柄がやけに映える佐藤隆太を起用したというのも実はそういうことかと思わされるし)


 プロレスが他メディアによって語られる場合に輝くのは、やはり映画としてのドラマの再構成以上にドキュメンタリーやノンフィクションとして扱われた場合だ。力道山・アントニオ猪木・ジャイアント馬場・・・力道山は2006年の韓国による映画も作られ、確かに歴史的にも伝記的にも非常に意味があるゆえ納得だが、プロレス・格闘技史の影響が最もでかいと思われるアントニオ猪木などは柳沢健氏の「1976年のアントニオ猪木」を持ち出すまでも無く事件の歴史としての側面が強く、これはやはり伝記映画として演出するよりドキュメンタリーとして掘り下げるほうに向いていることは明らかだろう。やや不謹慎だがいつの日にか猪木さんが亡くなったときに、なんらかの形で映画化される際にはドキュメンタリーの構造を使った形の伝記映画、ということのできるセンスのある監督またはプロデューサーが望ましい。というか、やっぱ猪木さん馬場さんの二人の相克を中心としたドキュメンタリ&伝記映画がベストか。最良の歴史的な題材としてどう考えても。




 こうした角度から考えていくと、ドキュメンタリー(≒内幕の公開)とドラマ性を一致させられるセンスによって作られてたという意味で、あのミッキー・ロークの「レスラー」の評価も分かってくる気もするし、最初から演出によるデフォルメが決定付けられているこのジャンルの内幕と実人生の中間点にて切り取られるドラマこそが、プロレスの映画化として最も緊張感のある部分だとすると、それはやはり一種の哀感というか、このジャンルを生きていくことによって人生に付加されるブルージーな部分こそがポイントなのだな、と思う。

 さんざ言われていることだが主演のミッキー・ローク自体の人生の悲哀というのがさらに映画の中で演出によるデフォルメの世界たるプロレスを演じることで、そうしたブルージーな部分というのにこそプロレスのドラマツルギーがある、というのを一番上手く映画で提示した作品というのは、分かる話だ。

 だがしかし、問題は、「レスラー」がプロレスが映画の中で描かれるべきドラマの普遍性を提示したとしても、やはり日本のプロレス・格闘技史と比較した場合回収しきれていない部分があると見えるし、場合によっては「レスラー」のドラマツルギーというのは間違っているとすら反論してしまう要素すらあると見ている。ギリギリのところで「レスラー」のドラマツルギーを認めがたい感覚が立ち上がる。
 無論日本においても矛盾に差し挟まれたブルージ―な人生というのがドラマツルギーの中心を為すには違いないのだが、「格闘技なのか演劇なのか」「真剣勝負なのか八百長か」「そもそも何もかもがガチというのは幸福な光景なのか?プロレスは全て間違ってるのか?」などなどの葛藤に関して、ビジネスとして割り切られるよりも、むしろそれをフックとして特に許容されてきたと見え、そしてそのあたりの問題をすべてバイオグラフィの中で経験し、さらに現在も現役である、ということで、「映画化するにふさわしい」というよりも、経歴を遡っているだけで映画のように錯覚してしまう選手がいるな、と最近思ったのであった。

 日本のプロレス・格闘技史の特性を全て経験し、そしてブルージ―なドラマを生きる選手とは?ということで、この項は次回に続く。

  
 

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