オウシュウ・ベイコク・ベース廃墟


漂泊するK-1・格闘技の「メジャー」の物語性の国境線の上で

Category: プロ格闘技   Tags: K-1  メジャー  物語性  チャンピオンシップ  
人形の家

一向に今年の大会開催のアナウンスが為されず、いくつかのK-1ファンのサイトを拝見しても非常にフラストレーションがたまっているのが見られるし、本当にここが末尾になってしまうのか・・・?という焦燥のある、日本で格闘技をメジャーに持ち上げた要因の最大のものである、K-1の20年近い歴史の中の意味とは?



<<Big Mouth Strikes Again - The Smiths>>



 かかとおとし様のこの記事をはじめ、幾人かのK-1ファイターがMMAに(一時的なものか継続するのかはわからないし選手によると思うが)行こうとしている、というニュースは熱心なK-1ファンではない自分でもかなりの拒否反応があり、全然意味も時代背景も違うとはいえ、かつてのステファン・ブリッツ・レコがPRIDEにてミノワマンや小川直也、中村和裕選手らへの供物に捧げられた記憶が思い起こされるからか、それとも勝敗云々の結果に関わらず金銭的に見返りが大きいから行ってるのかと、雑に考えてもかなり陰鬱なケースが多く、特に現状のK-1を巡る状況の中で転向を表明してるのはともかく没落の匂いばかりで辛い。

 一時代を築いたはずのレイ・セフォーがストライクフォースにて明らかに気迫なく一本負けしたり、大晦日の石井戦の次にバンナが選択した舞台はなんとIGFで鈴川真一と闘うことだったり(※この猪木インタビューでK-1ファイターが売り込みに来てるとかなんとか言ってるがマジか?)のニュースを聞くと、この光景はかつてのボクシングファン側にとって、日本のプロ格団体の異種格闘技戦の名目による供物としてかつての名ボクサーがリングに上げられたことを知った時の感情はこれに近いのか?などと思うのだった。


 今後の格闘技のメジャーの形を語るにおいて例えばアメリカのUFCやWWE、そしてボクシングの主要収入源の一つのPPVなんかの在り方を比較対照に持ち出したりしている例を時たま聞くが、そういう意味ではK-1メジャーの在り方というのは90年代のTV地上波のメディアの流れにきっちり合わせたものになっており、だからこそここまでのものになり、日本格闘技メジャーの嚆矢となった、などとも言えるのだろう。

 現在地上波の価値というのも落ちてきており、それに伴ってメジャーの価値が落ちたとか、去年の大晦日のような場当たり的なマッチメイクでその場その場しのぎにしながら放映権料をおもねっていくのではなく、次世代に向けての地上波依存の形態を脱したメジャーの在り方を模索しなければならない、みたいな世間に放映してくれるメディアの変動の視点でK-1をはじめとするメジャーの在り方を語るというのも別にいいだろう。


K-1はその経歴と形式上「地上波メジャー格闘技と競技」という部分の葛藤に関して、差はあれ比較的ネタに上がることの多かったように思う。現在進行でこの話題については各所で考察されているが、自分としてはいい感じにボクシングの世界最高の権威みたいな競技の頂点の気配をチラつかせながら、実質競技性以上に様々なキャラクターによる物語性を演出することに優れたコンテンツであったな、と。

 ちょっと前に「K-1で5Rだったら面白かった試合は?」みたいな話題がツイッターやってたときにあったのだが、質問の意図は3Rでは消化不良でこれから試合が展開される直前で終わってしまうから、みたいなものだと思うんだが、自分の中で直感的に思いついたのはUFCの5R戦、つまりチャンピオンシップというもののK-1との比較で、そういえばK-1に関しては競技のトップという権威を意味する王者戦よりも、グランプリを勝ち抜いていって年末の大会にてワンデイトーナメントで頂点を決める、ということで生まれる物語性の方に固執していたと思われ、こうして振り返ってみて「競技化されたK-1」というのはワンデイトーナメントで王者を決めるのでなくチャンピオンシップで5Rで闘って決めるもの、が適当な気がする。(無論、タレントいなけりゃDREAM王者戦くらいの微妙さなんだが、K-1のタレントなら可能だったはず。)魔裟斗の引退試合はあれは魔裟斗本人が想定していたK-1のチャンピオンシップの世界だったのか?とか今更思いもする。

 UFCのボクシング的な(とはいっても不可解・不完全燃焼によるリマッチが当たり前にあるが)意識に近いゆえのチャンピオンシップを、PPVのインフラの整っている国ゆえの構造で実行出来ているのに対して、長らく異種格闘技戦や立ち技最強を元にしたキャラクターたちによる闘いの物語によって王者を決める、というドラマを地上波の形態に合わせて演じてきたのがK-1であり、そしてそれはPRIDEはじめ後に続く日本メジャー格闘技のドグマになっているな、と感じる。

 K-1が地上波コンテンツのフックとしている物語性を固持しようとすることで場当たり的に首相撲に制限をかけたりなど、いかに競技技術の停滞を招いているのかというのが構造から分かる、ある意味すげえ危険なサイトが「キックボクシング・K-1 競技者用wiki」で、皮肉というかなんというか構造を詰めて検証すればするほどいかにK-1の進歩に安易な打ちあいをさせるような半端な仕掛けをすることが、結果競技技術の停滞に繋がってしまっているというのが「K-1、キックボクシングにおけるリングの広さについて 」あたりを参照するとわかりやすい。




 日本格闘技をメジャーに持ち上げる要因としてのK-1は、やはりよくも悪くもその当時のプロレス・空手などなどの構図を持ちこみ、闘わせていくことで一つの物語の流れを生み出したことと、それを上手く地上波コンテンツに乗せ、世間に露出させていく手腕が凄まじかったのだなあ、と思う。

 自分がこうして考えるのは日本格闘技が異種格闘技戦なんかを飲みこんで過熱する物語性というものと、新興格闘技が標榜する競技性と積み重ねていく権威性というものがずっと離反し合い、そして現在はいよいよメジャーが失われる=物語性が末尾に来ていることを背景に、K-1、MMAなどこの新興格闘技たちの競技としての自立というのが問われていく時代のように映る。
 
 仮にK-1の名前が海外に売り渡された場合、やはりワンデイトーナメントの物語性になるのか?それともチャンピオンシップに移行してボクシング的な競技のトップを争う形にし、王者の権威を積み重ねる方向にシフトするのか?それともワンデイでありながら競技的な価値の持つ、FIKAなるものが設置され選手のランキングを設定した、「立ち技の最強」を越えたワールドカップ」は生まれるのか(これがベストだろうが)?そして、それらを広める主にビジネスの資金となる放映形式はどうなるのか?などの疑問はある。

 そして、興行のフックとする物語性と、競技というもののバランスを理解していたと思われる石井館長は。魔裟斗は。自分にはメジャー格闘技の記憶を形作ったK-1の核の彼らがどう動き、何を思っているのだろうと考えている。

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テーマ : 格闘技    ジャンル : スポーツ

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